聖堂の創建とは? わかりやすく解説

聖堂の創建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 01:15 UTC 版)

サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「聖堂の創建」の解説

「旧サン・ピエトロ大聖堂英語版)」を参照 初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国皇帝として初めキリスト教公認し、自らも帰依したコンスタンティヌス1世指示建設されバシリカ教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵2世紀になって整備され異教徒墓地区域にある、聖ペテロらのネクロポリスを覆うように計画された。これは、夢のお告げを受け十字架の旗を掲げミルウィウス橋の戦い勝利した事から、その感謝捧げ物(「エクス・ヴォート」)として、聖人の墓の上建てられ6つ聖堂1つである。 この工事には2つ問題があった。一つ目ローマ法禁じていた墳墓冒涜反し当時使われていたと考えられるネクロポリス埋めてしまうという点である。二つ目墓所傾斜地にあり、バシリカ建設するには10mもの高低差整地なければならないであった。これらは皇帝権威推し進められた。 最初大聖堂形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され身廊360年頃、アトリウム390年頃、内部装飾5世紀中期までには完成した一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプシス含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達す巨大なもので、ヨーロッパ最大教会堂であった。 ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂司教座教会堂ではなくアプス中央にあるペトロ墓所聖地として多く巡礼者集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代中世教皇住まいは「首都世界本山にして首席教会堂」と称され救世主大聖堂隣接するラテラノ宮殿であった896年に、救世主大聖堂聖ヨハネ献堂され、「首席教会堂」の尊称サン・ピエトロ大聖堂に遷されることになったバシリカ教会堂舞台とする有名な出来事には、カール大帝の戴冠がある。教皇の座にレオ3世が就くと、799年反発者らが襲撃をかけ、教皇フランク王国逃げ込み大帝保護受けた大帝教皇ローマ護送し代理人立て裁判を開かせたが収まらず、ついに大帝本人ローマ入り事態収拾した。この功績から大帝は冠を授かる事になり、クリスマスの日に祭壇の前で教皇黄金の王冠大帝の頭に載せた現在のサン・ピエトロ大聖堂身廊中央に斑石の円盤があるが、これは旧聖堂祭壇前から移されたもので、カール大帝はこの石盤の上跪いて載冠を受けたといわれる。 現在、この創建当時サン・ピエトロ大聖堂失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂ファサード平面がよく似ており、当時教会堂偲ぶのに適している。また、聖堂建設され16世紀に、聖職者のティベリオ・アルファラーノと公証人のジャコモ・グリマルディが残した平面図デッサンおよび記録や、複数画家による絵画からも旧聖堂どのようなのだったか知る事ができる。

※この「聖堂の創建」の解説は、「サン・ピエトロ大聖堂」の解説の一部です。
「聖堂の創建」を含む「サン・ピエトロ大聖堂」の記事については、「サン・ピエトロ大聖堂」の概要を参照ください。

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