聖堂の創建
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「サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「聖堂の創建」の解説
「旧サン・ピエトロ大聖堂(英語版)」を参照 初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認し、自らも帰依したコンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵に2世紀になって整備された異教徒用墓地区域にある、聖ペテロらのネクロポリスを覆うように計画された。これは、夢のお告げを受け十字架の旗を掲げミルウィウス橋の戦いに勝利した事から、その感謝の捧げ物(「エクス・ヴォート」)として、聖人の墓の上に建てられた6つの聖堂の1つである。 この工事には2つの問題があった。一つ目はローマ法が禁じていた墳墓の冒涜に反し、当時も使われていたと考えられるネクロポリスを埋めてしまうという点である。二つ目は墓所が傾斜地にあり、バシリカを建設するには10mもの高低差を整地しなければならない点であった。これらは皇帝の権威で推し進められた。 最初の大聖堂の形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され、身廊は360年頃、アトリウムは390年頃、内部装飾は5世紀中期までには完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプシスを含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達する巨大なもので、ヨーロッパ最大の教会堂であった。 ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂は司教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代・中世の教皇の住まいは「首都と世界の本山にして首席教会堂」と称された救世主大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。896年に、救世主大聖堂は聖ヨハネに献堂され、「首席教会堂」の尊称はサン・ピエトロ大聖堂に遷されることになった。 バシリカ式教会堂を舞台とする有名な出来事には、カール大帝の戴冠がある。教皇の座にレオ3世が就くと、799年に反発者らが襲撃をかけ、教皇はフランク王国へ逃げ込み大帝の保護を受けた。大帝は教皇をローマに護送し、代理人を立て裁判を開かせたが収まらず、ついに大帝本人がローマに入り事態を収拾した。この功績から大帝は冠を授かる事になり、クリスマスの日に祭壇の前で教皇が黄金の王冠を大帝の頭に載せた。現在のサン・ピエトロ大聖堂の身廊中央に斑石の円盤があるが、これは旧聖堂の祭壇前から移されたもので、カール大帝はこの石盤の上に跪いて載冠を受けたといわれる。 現在、この創建当時のサン・ピエトロ大聖堂は失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂とファサードや平面がよく似ており、当時の教会堂を偲ぶのに適している。また、新聖堂が建設された16世紀に、聖職者のティベリオ・アルファラーノと公証人のジャコモ・グリマルディが残した平面図やデッサンおよび記録や、複数の画家による絵画からも旧聖堂がどのようなものだったか知る事ができる。
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