カール大帝の戴冠とは? わかりやすく解説

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カール大帝の戴冠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:09 UTC 版)

カール大帝」の記事における「カール大帝の戴冠」の解説

カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界決定づけたが、以下のような説がある。 尚樹啓太郎によれば780年即位したコンスタンディノス6世10歳という幼さであったため、母后イリニ政治後見した。コンスタンディノス6世成長するにつれ、イリニとそれを補佐する宦官たちと対立するようになり、とくにイコン崇拝巡ってイリニイコン擁護派であったのに対しコンスタンディノス6世イコン破壊派と結びつくようになった最終的に796年イリニ近衛軍掌握してクーデタ起こして797年コンスタンディノス6世追放しイリニ帝国一人統治するようになった西方では、カロリング朝領土拡大し影響力増した。また教皇このころローマ市生まれ人物がつくことが多くなり、東方で盛んであったイコン破壊運動にも不満を持っていたので徐々にビザンツ帝国に距離を置いた教皇レオ3世コンスタンディノス6世追放されて以後ローマ皇帝位空白であると考え800年クリスマスの日にローマ訪れていたカール大帝皇帝位授けたカール大帝はこの戴冠にあまり乗り気ではなかった。カール大帝ビザンツ帝国承認得ようとし、必要であればイリニとの結婚さえ提案するつもりであった。このときの状況はかつてローマ帝国皇帝東西分立していた時とは異なっていた。ローマ教皇ビザンツ皇帝も、皇帝と教会一つあるべきだと考えていたから、カール大帝西ローマ皇帝位承認求めて拒絶遭うだけであったビザンツ皇帝カール大帝を「皇帝」と認めても、「ローマ人皇帝」とは認めなかったし、カール大帝も「ローマ人皇帝」とは名乗らなかった。 ハンス・シュルツェによればカール大帝王国西ヨーロッパ支配的な影響力をもつようになるにつれ、ローマ教皇自身宗教的権威後ろ盾となる政治権力必要性から頼みとするようになったカール大帝自身自分地位の上昇に明確な意識持っていた。教皇レオ3世反対派から暴行を受け、幽閉され先からカール大帝宮廷逃れてきたとき、カール大帝には「教皇問題」に関わるべき権限が本来ないはずであったが、彼はレオ3世反対派陳述聞いて判決下した800年クリスマスにカール大帝の戴冠がおこなわれた儀式ビザンツ帝国意識したものであったが、ビザンツでの戴冠が「戴冠民衆による歓呼総主教による聖別」という順番であったのに対し、「教皇による戴冠民衆による歓呼」という順番おこない意図的に教皇役割高めたものであったカール大帝東方ビザンツ皇帝女帝イレーネに対しては彼女が女性であり、息子である前皇帝盲目にして追放したという理由から、これを帝位請求権を持つ者とは考えていなかった。しかしイレーネにつづくニケフォロス1世とは「共存関係」を結ぼうとした。カール大帝はかつてのローマ帝国東西分割に範をとって、自身帝国を「西帝国」と呼んだピレンヌによればローマ教皇ハドリアヌス1世死んだ頃には、カール大帝意識中にキリスト教の保護者」という考えを見ることができる。カール大帝教皇レオ3世にあてた書簡自身を「全キリスト教徒支配者にして父、国王にして聖職者首長にして嚮導者である」と述べている。800年戴冠によって成立した皇帝二重の意味でかつての西ローマ皇帝再現ではなかった。まず教皇カトリック教会皇帝としてカール大帝戴冠させた。教皇カール大帝帝冠与えたのがローマ市民ではなく教皇であるということ示し、さらにその皇帝世俗的な意味合い全くなかった教皇はすでにあるカール帝国聖別施したというべきである。なぜならカール大帝即位によって何らかの帝国組織帝国制度創出されわけではないからである。次にカール大帝帝国はかつての西ローマ帝国のように地中海重心をもつのではなく、その重心北方にあったカール大帝は自らの称号で「ローマ人皇帝」とは名乗らなかった。彼は「ローマ帝国統治者」と述べたのであり、つづく「フランク人およびランゴバルド人の王」というのがより現実的な支配領域指していた。カール大帝帝国中心ローマではなくて、アーヘンであったピレンヌによればカール大帝皇帝戴冠は彼がフランク国王としてキリスト教守護者任じていたということであり、これは西ヨーロッパ地中海中心世界から内陸世界へ移行していく過程必然の結果であった渡辺治雄は、ビザンツ帝国女帝イレーネ即位という偶然的事象重視しカール大帝皇帝になることは全く考えていなかったが、聖職者たちが女帝支配違法であり、ビザンツ帝国では帝位消滅しているという理由から、カール大帝皇帝即位積極的に薦めた教会主導おこなわれた800年戴冠以後は「西ローマ帝国復興」という理解一般化した802年女帝イレーネ追われニケフォロス1世登極してからは皇帝空位論は成り立ちえず、カール大帝皇帝即位ビザンツ帝国政情依存するところが大きかったとした。 瀬戸一夫は、戴冠状況的かつ偶然的出来事であったとする。教皇目論見ビザンツ帝国政治的圧力回避にあり、フランク族影響力用いて当時混乱していたコンスタンティノープル政局遠隔操作することにあったシャルルマーニュ目的ビザンツ帝国同格かつ独自の「王国教会共同体ラテン地域打ち立てることであった両者の間にはしたがって一定程度隔たりがあったのだが、レオ3世不安定な地位問題棚上げして、一方的に帝冠授与行った教皇政治判断理念的にも現実的に破綻していたが、これが成功したのには当時ビザンツ政権基盤貧弱な女帝イレーネーによっていたことも大きく寄与した。彼女は反対派攻勢晒されており、そのため対外的に親フランク的な政策をとった。イレーネーシャルルマーニュとの婚姻にも好意的で、シャルルマーニュもこれには乗り気であった。しかしこれは一時政治状況から成り立ったであって、それが過ぎれば二帝問題聖俗二元統治の実際上の問題などいろいろな矛盾事後的に正当化する必要が生じた。つまり計画的なものであったとは考えられず、戴冠必然的ではなかったが、戴冠教皇という宗教的権威が「ローマ人皇帝」を創造するといった永続的な宗教的政治的意味後世もたらした

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