カール大帝の「西ローマ帝国」と神聖ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 18:10 UTC 版)
「帝国」の記事における「カール大帝の「西ローマ帝国」と神聖ローマ帝国」の解説
詳細は「神聖ローマ帝国」を参照 フランク王国 神聖ローマ帝国 西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態をとっていた。しかし、7世紀以降イスラムやスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、また、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこで、ローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これがカール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。 これらの帝国は古代ローマ帝国の理念の影響をうけて、「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された。このため、西欧では、「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスやイングランドなどの国王よりも格上とされていが、その権力は王と同等のものと規定された。このことは13世紀初頭に生まれた「国王は自分の国内では皇帝である(Rex imperator in regno suo)」という「主権の慣用句」として表現された。。神聖ローマ皇帝が実際に支配したのは、最大のときで現在のドイツ・オーストリア・スイス・ベネルクス三国・北イタリア・ブルグント(ブルゴーニュ)などフランス東部の戦前までドイツ人地域であった所で、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。 後に神聖ローマ帝国の領邦君主であるホーエンツォレルン家はプロイセン・シレジア・ポーランド西部に、ハプスブルク家はチェコ・スロベニア・ハンガリーなど非ドイツ語圏に支配領域を拡大したが、それら領域は神聖ローマ帝国の領域外とされた。ちなみにホーエンツォレルン家は、後に王号を名乗るが、神聖ローマ帝国の領域外におけるプロイセンの王という扱いで、神聖ローマ皇帝から認められた。 また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人の選挙王制の伝統が残っており、また、各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに、三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)に主権が認められたため、帝国の権威が衰退した。このため、フランスの思想家ヴォルテールは、「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。従来の歴史学における評価では中央集権化に失敗しドイツ統一を遅らせたとして否定的にとらえるものが主流であったが、近年は帝国の諸制度への研究が進み、見直しの論が出てきている。
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