カール大帝の「西ローマ帝国」とは? わかりやすく解説

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カール大帝の「西ローマ帝国」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:16 UTC 版)

皇帝」の記事における「カール大帝の「西ローマ帝国」」の解説

476年西ローマ帝国滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国皇帝として宗主権主張し6世紀東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世時代には、イタリアイベリア半島一部東ローマ帝国征服したこのため西ヨーロッパ諸国ローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝宗主権認め、その臣下ならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人布教進めてローマ教会勢力拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった実際7世紀教皇マルティヌス1世のように、教義めぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され流刑処せられた者もいたほどであった。 しかし7世紀以降東ローマ帝国イスラム帝国ブルガリア帝国などの攻撃受けて弱体化したためにイタリアで覇権維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義問題や、教会首位をめぐるローマコンスタンティノポリス争いなどで対立深めるようになったこのためローマ教会は、東ローマ帝国代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった797年東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーコンスタンティノス廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きたこれを機にローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノス廃位によって正統ローマ皇帝絶えた」として、800年国力伸張著しフランク王国国王カールに「ローマ帝国統治する皇帝」の称号与えた。これがカール大帝である。ただし、カール自分皇帝位満足せずそれまで教皇から皇帝位与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国自分皇帝位承認してもらうための運動粘り強く行った5世紀西ローマ帝国滅亡以前は、東西皇帝即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果812年になって東ローマカール皇帝(ただし、「ローマ人皇帝ローマ皇帝)」ではない)として承認した以後西ヨーロッパ皇帝西ローマ皇帝後継者キリスト教守護者の意味を持つようになるまた、本来ローマ皇帝は「元老院市民・軍隊」によって選ばれるのだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前守られた)、カール大帝の戴冠経緯は、ローマ教皇皇帝任命権主張する根拠ともなった

※この「カール大帝の「西ローマ帝国」」の解説は、「皇帝」の解説の一部です。
「カール大帝の「西ローマ帝国」」を含む「皇帝」の記事については、「皇帝」の概要を参照ください。

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