カール大帝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:01 UTC 版)
「カロリング朝ルネサンス」の記事における「カール大帝の時代」の解説
カール大帝はフランク王国を「キリスト教帝国」とみなし、キリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高め、教会を発展させることが必要と考え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、自由学芸と教育を振興した。特に古典研究を進め、俗語化していたラテン語が純化され、ラテン語教育が盛んになった。また、各地に教会付属の学校が開かれた。W・ウルマンはこのため、カロリング・ルネサンスは学芸文化運動というよりも宗教運動であるとした。 カール大帝はヨーロッパ各地から知識人を招き、カールの宮廷は「宮廷学校」とよばれるようになった。イングランドから招かれた神学者のアルクィンがカロリング朝ルネサンスの中心人物として有名であり、一時はカール大帝のブレーンとして皇帝を補佐した。774年のランゴバルド王国併合後、イタリア人パウリヌス、ピサのペトルス(英語版)らが宮廷に招かれるようになった。カールは宮廷学校に貴族だけでなく、中流や下流階層の子弟にも勉学を学ばせた。 カロリング朝が特に力を入れていたのが、新設された学校で使用する標準的なカリキュラムの作成であった。ヨークのアルクィンはこの取り組みを主導し、教科書の執筆、単語リストの作成、中世ヨーロッパにおける教育の基礎となる自由七科(三学、四科)の確立に寄与した。
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