フランク王国による征服後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 14:36 UTC 版)
「フリースラント王国」の記事における「フランク王国による征服後」の解説
ボーン川の戦いののち、フランク王国はラウエルス川までのフリースラントを併合した。785年、カール大帝がラウエルス川を越えてザクセン人と戦い、ヴィドゥキントを破った。カロリング朝期にはグレワン(grewan)という長官がフリースラントを支配した。これは伯に相当する役職だが、封建制下の身分というよりはむしろ前封建的な統治者に近かった。(p205)。カール大帝の時代、「フリース人の法」がラテン語で記録された。 11世紀までは、フリー川以西を治める独立したフリースラント伯が存在したとされる。しかし1101年、ホラントのフロリス2世が「ホラント伯」の称号で言及されるようになり、このことからフリースラントの独立が失われていることがうかがえる。ホラントとは「木の土地」(古ネーデルラント語: holt lant)を意味するものと考えられ、後のホラント伯領の中核ドルトレヒト周辺の地帯を指した。1291年、ホラント伯フロリス5世は自らを「ホラント・ゼーラント伯、フリースラントの領主」と名乗り始めた。この称号は後にホラント伯領がエノー伯、バイエルン=シュトラウビング、ブルゴーニュ公国へと併合されていく過程でも継承されていった。同時にその称号は次第に意味を失っていき、最後の「フリースラント伯」フェリペ2世のときには、その称号はフェリペ2世自身の長い称号の中途に埋もれた一称号に過ぎないものとなった。
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