フランク王国の分裂と「フランク」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)
「フランク人」の記事における「フランク王国の分裂と「フランク」」の解説
フランク王国は843年のヴェルダン条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国の3つに分裂した。紆余曲折を経て、870年のメルセン条約により、中フランク王国の領土のうち、イタリア以外の領域が東西両王国に分割され、その後カール3世(肥満王)による僅かな期間を除き、永久に統合されなかった。このことはそれぞれの王国に住むフランク人たち、更にイタリア(ランゴバルド)や東ローマ帝国における「フランク人」概念に大きな影響を与えた。 東西どちらの王国も、自らこそがフランク的伝統の正統な継承者であることを自任していたため、両国の歴史叙述家や書記たちは、自己の側を「フランク」であるとし、相手側を「非フランク的」な名称で筆記した。西フランクの半官製の史書と言える『サン・ベルタン編年誌』では、東フランク王ルートヴィヒ2世を「ゲルマン人の王 rex Germanorum」、または「ゲルマーニアの王 rex Germaniae」と呼び、フランク王とは呼ばない。一方東フランク側の『フルダ編年誌』もまた、西フランク王国を「ガリア Gallia」「シャルルの王国 regnum Karli」と呼称し、フランクの名は東側に限定して使用された。 西フランク王国では伝統的王家であるカロリング家が王位を(名目的にせよ)継承していたのに対し、東フランクでは911年にカロリング朝が断絶し、非カロリング家のコンラート1世が、更に919年には非フランク人(ザクセン人)であるハインリヒ1世が即位した。こうしたことにも影響され、西フランク側の正統意識は10世紀に入るとますます明瞭になり、西フランクのランス大司教座参事会員フロドアールは、フランクと名の付くあらゆる概念を「西」にのみ結びつける(例えばフランク王、フランク王国、フランキアと言う用語は自動的に「西フランク」のことであった)一方で、東フランク王は「ライン川の向こう側の国王(Transrhenensis rex)」或いは単に「ライン川の向こう側の(Transrhensis)」とのみ呼称している。ただし現実的には西フランク側のこうした姿勢は、東フランク側の武力によって譲歩を迫られ、921年の和平において双方が「西フランク王(rex Francorum occidentalium)」「東フランク王(rex Francorum orientalium)」であると承認するのを余儀なくされた。 更に中フランク王国の一部であったロートリンゲン地方においても、自らを正統の「フランク人」であると見做すという観念が生じており、東フランク王を「フランク=ロートリンゲン人とゲルマン人の国王」と呼び、ロートリンゲン人のみを「フランク」たる存在と認識しようとしていることを示す偽作証書が現存している。 他方で、フランク概念の外にあるイタリア(ランゴバルド)では、「フランク人(Franci)」と言う語は多義性を帯びるようになった。クレモナ司教リウトプランドが10世紀後半に残した記録の一つ、『報復の書(ラテン語版、フランス語版)』では「Franci」は「"ロマンス語"系フランク人」「"ドイツ語"系フランク人」の二つに大別される。リウトプランドは、前者を単に「Franci」と呼ぶ一方、後者を「Franci Teutonici」と呼び、この「"ドイツ語"系フランク人(Franci Teutonici)」を、バイエルン人やザクセン人など、東フランク内の他の民族と同列に扱っている。また、同じくリウトプランドの『コンスタンティノープル使節記(ラテン語版)』によれば、東ローマ(ビザンツ)皇帝ニケフォロス2世フォカスは「フランク人(Franci)」と言う用語によって「ラテン人("ロマンス語"系フランク人 Latini)」「ドイツ人("ドイツ語"系フランク人 Teutones)」の双方を認識していたと述べられており、後世の用法における「広義のフランク人 -大フランク王国の住民- 西欧人一般を指す」用法の源流がここに見られる。なお、同書においてリウトプランド自身は「Franci」を常に「狭義のフランク人 -フランケン地方のフランク人-」の意味で用いており、外国人から見て「フランク」と言う用語が指す実体がもはやただ一つではなかったことを示している。
※この「フランク王国の分裂と「フランク」」の解説は、「フランク人」の解説の一部です。
「フランク王国の分裂と「フランク」」を含む「フランク人」の記事については、「フランク人」の概要を参照ください。
- フランク王国の分裂と「フランク」のページへのリンク