フランク王国と神聖ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:21 UTC 版)
「ドイツ人」の記事における「フランク王国と神聖ローマ帝国」の解説
古代の終わりにフランク王国により、ローマ亡き後のヨーロッパが統一される。フランク族は今日的に言う所の多民族の共同体で、母胎とされるゲルマン系民族の他にもスラブ系・ケルト系・ラテン系に属する様々な住民グループを統合して勢力を伸ばした。異民族を同胞として吸収していくという部分は、ラテン人を中核としつつも様々な勢力を同化していったローマ帝国に似通っており、彼らはキリスト教を共通の価値観とする事で欧州を再度統合しようと試みた。その過程で非キリスト教徒であったゲルマン系民族のザクセン人とバイエルン人は激しく抵抗したが、カール大帝率いるフランク軍はザクセン人を大量に虐殺することでこれを鎮めた。こうした点からも古代ゲルマニアの住民が文化的・民族的に一枚岩でなかったこと、そしてフランク族が特定の文化グループに拘らないコスモポリタン的な思想を抱いていた事が伺える。 フランク王国が僅かな統治期間で分裂・消滅すると、その後裔国の一つである東フランク王国がゲルマニアを支配するようになる。東フランクは名を神聖ローマ帝国に改め(より正確には君主号を「神聖なる皇帝(アウグストゥス)」から「神聖なるローマ人の皇帝」とした)、フランク帝国の果たせなかった世界帝国の再建を目指して国内の諸民族を押さえつけつつ、積極的な対外戦争に打って出た。しかし帝国はオットー2世の代にシチリアのイスラム帝国との戦いに敗れるなどイタリア遠征で敗北を繰り返し、またバルトスラブ人の蜂起などの反乱運動に忙殺され次第にその権威を失っていく。当時の帝国はかつてフランク人に弾圧された地方民族であるザクセン人の大公家が支配しており(ザクセン朝)、彼らはザクセン人としての立場をかなぐり捨ててまでローマという世界帝国の再建を目指したが、オットー3世の代にはローマを訪れた際に地元貴族による反乱に直面する。 この時、オットー3世は「汝らは余のローマ人ではないのか(中略)…余は汝らの為にドイツ人もザクセン人も捨て、余の血を拒絶したのだ」と、各民族の対立の深さを嘆いたと言われる。この際用いられた「ドイツ人」は民族を指す用語ではなく、単に「(ドイツ地方の)民衆語」を話す人々という意味であった。こうした用法は9世紀ごろにイタリアの知識人層で使われ、後に東フランク人を指す言葉に転じたが、中世時代を通してあまり一般的な用法ではなかった。 その後、帝国は各地の有力者に権利が分散され、住民の郷土愛を後ろ盾にした領邦国家からなる「連邦」へと弱体化した。この領邦国家時代はドイツ地方の歴史で最も長く、ドイツの人間は中世時代の殆どをこの体制の下で暮らし、三十年戦争とその後のナポレオン戦争で連合としての帝国すら崩壊するまで続いた。
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