古代ゲルマニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:21 UTC 版)
「民族としてのドイツ人」を定義づけるのは至難である。それはドイツが単一民族による統一国家を持ったことがない、また国境線が第二次世界大戦のすぐ後まで頻繁に変更されてきたこと、あるいはヨーロッパにあっては人の移動は比較的簡易、自由であるなどの理由による。そもそもドイツ民族という概念自体が比較的近年になって形成された物であり、中世自体の時点では単に「ドイツ人」はドイツ地方に住む人間の総称でしかなかった。古代の時点においてはドイツ(ローマからはゲルマニアと呼ばれた)の住人は複数の小規模な民族(部族)に分かれていて盛んに争っていた(ゲルマン人を参照)。 50以上の勢力に分かれていた彼らはいずれも独自の文字を持っていなかったので、その存在は他者(概ねギリシャ人やローマ人)の記述以外に知る方法は無い。その為、ゲルマニアの諸民族は客観性を欠く、偏見やイメージの先行する理解のされ方をしてきた。ゲルマニアの住民が単一の集団と見なされたり、身体的特徴が強調されて伝わったのもそうした要素が背景にある。
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