「東西教会の相互破門」の有効性
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「ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「「東西教会の相互破門」の有効性」の解説
詳細は「東西教会の分裂」を参照 この「相互破門」が東西教会の分裂を確定したと言われる事が多いが、既に述べたように、この破門は 既にローマ教皇レオ9世は永眠しており、ローマ側からの破門はフンベルト枢機卿個人の怒りによる独断の面が強い事 フンベルト枢機卿の破門状にある破門の対象が、東方の正教徒全てを指すのか明らかでない事 総主教ミハイル1世の破門宣告の対象はフンベルト個人とその同行者達だけであった事 以上の事由につき、東西教会の分裂がこれで確定したと考えるのは難しく、東西両教会のこの時点での破門は有効だったのかすら疑わしい程度のものである。既に ローマ教皇(ローマ司教)の地位(教皇首位権問題) 聖像破壊論争 フィリオクェ問題 東ローマ帝国の事前承認を経ないローマ教皇によるカール大帝の戴冠 フォティオスの分離 スラヴ語奉神礼(典礼)の是非 を巡り、東西両教会の距離は広がっていた。従って、1054年の当該事件については、あくまで東西教会の相違を象徴する、分かりやすい事件の一つといった位置づけが妥当であろう。東西両教会の分裂が決定的とされるのは1204年の第4回十字軍がコンスタンディヌーポリを攻略・占領した事件においてである。なおこの相互破門は1965年に東西両教会双方から解消されているが、未だ東西両教会の相互領聖は実現されておらず、このことも相互破門を「東西教会の分裂の決定的事件」と位置付ける事に疑問符をつける根拠となる。
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