「東武天皇」説
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輪王寺宮が戊辰戦争中の慶応4年に彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。 上野戦争の頃から輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れており、輪王寺宮の江戸脱出に手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している。 法学者であり、歴史関係の著書もある瀧川政次郎 はこの際輪王寺宮が同盟の「天皇」として推戴された可能性があると指摘し、その後、武者小路穣、鎌田永吉 と続いた。また遠藤進之助、亀掛川博正らも追随している。藤井徳行はこの説をさらにすすめ、当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている ことや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っている。「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光屋史料・鶴ヶ島」 「旧仙台藩士資料」がそれであり、 これらを藤井徳行は「東北朝廷閣僚名簿」と表現している。藤井はこれらを踏まえ、「東北朝廷」の存在はほぼ確定的になったと主張した。このほか星亮一、小田部雄次なども東北朝廷説を支持している。 独自元号としての「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。還俗後の諱(俗名)は「陸運(むつとき)」としたという。また覚王院義観の日記には、輪王寺宮を天皇に擬するような表現が度々使われており、藤井徳行など東北朝廷説論者が根拠とすることもあるが、藤井自身も認めるように、義観の日記には「宮御方」など親王に対する用語が併用されていた。 一方で石井孝、佐々木克、工藤威は現実性をもたない、構想のみのものであったと批判している。輪王寺宮は列藩会議出席に先立つ7月5日には「今上皇帝 玉体清寧」を祈る祈禱も行っており、7月9日に秋田藩、7月10日には仙台藩に対し「幼君」のため、「久壊凶悪」な「薩賊」を除くとした「輪王寺宮令旨」を下している。さらに7月10日には動座について説明し、「薩賊」を除くために輪王寺宮が決起したという布告文が公議府から出されている。この布告文には目的を達成したあと輪王寺宮が東叡山(寛永寺)に戻るとされた上、「南北朝ノ故事ヲ附会シテ、宮様ノ御神意ヲ弁ヘス、誣罔ノ説ナサンコトヲ恐ル」と説明されている。石井孝はこの布告文から東北朝廷の存在は成り立たないとしている。工藤威は即位や改元が実際には行われておらず、還俗した様子も見られないと指摘している。また東北朝廷の存在を示す「東北朝廷閣僚名簿」の諸史料は、作成された経緯が不明確であると指摘されている。
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