「東武天皇」説とは? わかりやすく解説

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「東武天皇」説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:03 UTC 版)

北白川宮能久親王」の記事における「「東武天皇」説」の解説

輪王寺宮戊辰戦争中の慶応4年彰義隊擁立された頃、または奥羽越列藩同盟迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位推戴されたという説がある。 上野戦争の頃から輪王寺宮天皇として擁立されるという噂は流れており、輪王寺宮江戸脱出手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している。 法学者であり、歴史関係著書もある瀧川政次郎この際輪王寺宮同盟「天皇」として推戴され可能性があると指摘しその後武者小路穣鎌田永吉続いた。また遠藤進之助、亀掛川博正らも追随している。藤井徳行はこの説をさらにすすめ、当時日本アメリカ公使本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事掲載されている ことや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し元号を「大政」と改め政府布陣定めた名簿史料として残っている。「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光史料鶴ヶ島」 「旧仙台藩資料」がそれであり、 これらを藤井徳行は「東北朝廷閣僚名簿」と表現している。藤井はこれらを踏まえ、「東北朝廷」の存在はほぼ確定的になったと主張した。このほか星亮一小田部雄次なども東北朝廷説支持している。 独自元号としての大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。還俗後の諱(俗名)は「陸運(むつとき)」としたという。また覚王院義観日記には、輪王寺宮天皇擬するような表現が度々使われており、藤井徳行など東北朝廷説論者根拠とすることもあるが、藤井自身認めるように、義観日記には「宮御方」など親王対する用語が併用されていた。 一方で石井孝佐々木克工藤威は現実性もたない構想みのものであった批判している。輪王寺宮列藩会議出席先立つ7月5日には「今上皇帝 玉体清寧」を祈る祈禱行っており、7月9日秋田藩7月10日には仙台藩対し幼君」のため、「久壊凶悪」な「薩賊」を除くとした「輪王寺宮令旨」を下している。さらに7月10日には動座について説明し、「薩賊」を除くために輪王寺宮決起したという布告文が公議府から出されている。この布告文には目的達成したあと輪王寺宮東叡山寛永寺)に戻るとされた上、「南北朝故事附会シテ宮様御神意ヲ弁ヘス誣罔ノ説ナサンコトヲ恐ル」と説明されている。石井孝はこの布告文から東北朝廷存在成り立たないとしている。工藤威は即位改元実際に行われておらず、還俗した様子見られない指摘している。また東北朝廷存在を示す「東北朝廷閣僚名簿」の諸史料は、作成され経緯不明確であると指摘されている。

※この「「東武天皇」説」の解説は、「北白川宮能久親王」の解説の一部です。
「「東武天皇」説」を含む「北白川宮能久親王」の記事については、「北白川宮能久親王」の概要を参照ください。

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