「東西教会の相互破門」に至る経緯
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「ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「「東西教会の相互破門」に至る経緯」の解説
1054年に、総主教ミハイル1世が教皇レオ9世に対して宛てた手紙の中で、差出人(ミハイル1世)の称号は「全地総主教(Οικουμενικός Πατριάρχης, Ecumenical Patriarch)」と記載され、ミハイル1世が教皇であるレオ9世に対し「父」ではなく「兄弟」と呼びかけていた事が東西両教会間の争点となった。「全地総主教」の称号は、ローマ教皇の絶対的な権威と権限を侵しかねないものとして捉えられ、また教皇を「父」ではなく「兄弟」とコンスタンディヌーポリ総主教が呼ぶ事を認める事は、これもまたローマの権威を損ねるものとして捉えられたからであった。 こうした状況下で、ローマ側の使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていたのは枢機卿フンベルトであった。フンベルトはニケア・コンスタンティノポリ信条におけるフィリオクェ問題、すなわち聖神が父からのみ発するとする文言を用いる東方教会と、聖霊は父と子から発するとする文言を用いる西方教会との間の論争において、「東方が勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し(実際は西方がフィリオケを後代に付加えた事は、現代の西方教会は認めている)、ミサにおける東方の執行形式を非難し、東方における神品の妻帯を批判し、さらにローマ教皇の絶対的な権威と権限を主張するなど、熱烈なローマ教皇至上主義者であった。 ミハイル1世はフンベルトに会う事を、西方の政治的理由に対する疑義から拒絶し、数ヶ月に亘って会見の機会を与えずにフンベルトを待たせた。ここに至って、レオ9世が既に3ヶ月前に永眠しており破門を行う事は不可能であったにも関わらず、フンベルトはミハイル1世とその同調者に対する破門状を、1054年6月16日にコンスタンディヌーポリ総主教の座所たるアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけた。その際、アギア・ソフィア大聖堂の一人の輔祭が大聖堂を出て行ったフンベルトを追いかけて取りすがり、破門状を持ち帰って欲しいと懇願したが聞き入れられなかった。 これに対してミハイル1世は、フンベルトとその一行に対する破門を宣言した。これはノルマン人への対抗のために東西教会の関係改善を模索していた皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの意に反するものであったが、結局のところミハイル1世とコンスタンディヌーポリ教会側のローマ教会への対抗措置を皇帝は抑える事は出来ず、フンベルトを中心とするローマ教会側の使節団の説得にも失敗した。
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