「東西教会の相互破門」に至る経緯とは? わかりやすく解説

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「東西教会の相互破門」に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 15:17 UTC 版)

ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「「東西教会の相互破門」に至る経緯」の解説

1054年に、総主教ミハイル1世教皇レオ9世に対して宛てた手紙の中で、差出人ミハイル1世)の称号は「全地総主教(Οικουμενικός Πατριάρχης, Ecumenical Patriarch)」と記載されミハイル1世教皇であるレオ9世対し「父」ではなく「兄弟」呼びかけていた事が東西教会間の争点となった。「全地総主教」の称号は、ローマ教皇絶対的な権威と権限侵しかねないものとして捉えられ、また教皇を「父」ではなく「兄弟」コンスタンディヌーポリ総主教が呼ぶ事を認める事は、これもまたローマ権威損ねるものとして捉えられたからであったこうした状況下で、ローマ側使節としてコンスタンディヌーポリ訪れていたのは枢機卿フンベルトであった。フンベルトはニケア・コンスタンティノポリ信条におけるフィリオクェ問題、すなわち聖神が父からのみ発するとする文言用い東方教会と、聖霊父と子から発するとする文言用い西方教会との間の論争において、「東方勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し実際西方フィリオケ後代付加えた事は、現代西方教会認めている)、ミサにおける東方執行形式非難し東方における神品妻帯批判し、さらにローマ教皇絶対的な権威と権限主張するなど、熱烈なローマ教皇至上主義であったミハイル1世はフンベルトに会う事を、西方政治的理由対す疑義から拒絶し数ヶ月亘って会見機会与えずにフンベルトを待たせた。ここに至ってレオ9世が既に3ヶ月前に永眠しており破門を行う事は不可であったにも関わらず、フンベルトはミハイル1世とその同調者対す破門状を、1054年6月16日コンスタンディヌーポリ総主教座所たるアギア・ソフィア大聖堂宝座叩きつけた。その際アギア・ソフィア大聖堂一人輔祭大聖堂出て行ったフンベルトを追いかけ取りすがり、破門状を持ち帰って欲しいと懇願した聞き入れられなかった。 これに対してミハイル1世は、フンベルトとその一行対す破門宣言した。これはノルマン人への対抗のために東西教会の関係改善模索していた皇帝コンスタンティノス9世モノマコス意に反するものであったが、結局のところミハイル1世コンスタンディヌーポリ教会側のローマ教会への対抗措置皇帝抑える事は出来ず、フンベルトを中心とするローマ教会側の使節団説得にも失敗した

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