「松の廊下」から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:04 UTC 版)
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で夫・義央が播磨赤穂藩主・浅野長矩に斬り付けられた。浅野は切腹・改易になったものの、吉良家と浅野家遺臣たちの間で緊張状態が発生し、同年8月19日、幕命により吉良家の屋敷は、江戸城のお膝元の呉服橋から本所松阪町へ移された。この時、富子は義央に同道せずに芝白金にある上杉家下屋敷へ移っている。富子は上杉家の中臈の藤波、高野他小姓10名ほどを義央の世話係として本所松坂の吉良邸に入らせている。 本所松阪の屋敷へ同道しなかった理由は諸説あり、離婚説や不仲説(富子が義央に「浅野も腹を切ったのだから、貴方も腹を切ってはどうか」と言って不仲になったという俗説が有名)、浅野家遺臣らの討ち入りがあった場合に富子の身に危険があるといけないと案じた義央自身が上杉家へ行くよう指示したという説、新しい屋敷が狭すぎて女中を連れていけなかったので同道しなかったという説などがあるが、いずれも俗説の域を出ていない。 元禄15年(1702年)12月14日の浅野家遺臣ら(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りによって夫・義央が死去すると、富子は落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔った。そのため、夫婦仲が悪くなったわけではないとする一方、富子の死後に吉良家の菩提寺万昌院ではなく東北寺に埋葬されたことから、離婚していた、もしくは生前不仲であったとする見方もある。 宝永元年(1704年)、上杉家下屋敷で死去した。享年62。戒名は梅嶺院清巌栄昌大姉。
※この「「松の廊下」から晩年」の解説は、「梅嶺院」の解説の一部です。
「「松の廊下」から晩年」を含む「梅嶺院」の記事については、「梅嶺院」の概要を参照ください。
- 「松の廊下」から晩年のページへのリンク