「松井文書」
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「昭和天皇・マッカーサー会見」も参照 松井は、昭和天皇とダグラス・マッカーサーの会見5回(第7~11回、うち第7回は記録なし)、マシュー・リッジウェイとの会見7回の通訳をし、これらの会見に加えて関連する会見や天皇の発言を詳細に記録していた。 松井は1980年(昭和55年)に出版する意図をもってこれらの記録をまとめ、翌1981年(昭和56年)10月2日、侍従長入江相政にコピーを渡して出版したい旨を相談した。入江は10月22日付の日記で、自身の他、徳川義寛侍従次長や官長すべて反対の旨を伝えて出版を断念させた旨及び松井からコピーを侍従長の秘庫で預かることを依頼された旨を記している。 1989年(昭和64/平成元年)、昭和天皇の崩御後、「松井文書」の概要をフランス語で出版した。1994年(平成5年)1月、産経新聞紙上に「文書」の一部を掲載。2002年(平成14年)8月5日に朝日新聞が「文書」の写しを入手し、概要を報道した。しかし、著作権上の制約から、全文公開には至っていない。
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