昭和天皇との会談とは? わかりやすく解説

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昭和天皇との会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)

ダグラス・マッカーサー」の記事における「昭和天皇との会談」の解説

昭和天皇・マッカーサー会見」を参照 昭和天皇マッカーサー会談については、様々な関係者から内容伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方マッカーサー多く関係者話し1964年執筆した回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民戦争遂行にあたって政治軍事両面行ったすべての決定行動対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国採決委ねるため、おたずねした」と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気誠実な態度に「骨の髄まで感動し、「日本最上の紳士」であると敬服したマッカーサー玄関まで出ないつもりだったが、会談終わったときには天皇を車まで見送り慌てて戻ったといわれる。 しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり、自己弁明自慢自惚れ溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇マッカーサーアメリカ製タバコ奨め昭和天皇震えた手でタバコ吸ったと言っているなど事実として疑わしい記述もある。 マッカーサーから会談内容聞いた関係者かなりの数に上るが、その内容各人によってかなり異なっている。 一番身近な関係者は妻のジーン・マッカーサーで、マッカーサー記念館事務局1984年41回にもわたってジーンに初のロングインタビューを行っているが、ジーンはこの日の様子を、日本人の使用人天皇顔を合わせないよう1ヶ所に閉じ込めておけという指示マッカーサーからあったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物聞いており、最初に出会った人物深くお辞儀をすると予想されるため、ドア開けて天皇迎えるのはフィリピン人ボーイではなくマッカーサー副官ボナー・フェラーズ准将通訳フォービアン・バワーズ少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言信頼性が高いと思われるジーン側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間カーテンの裏から、この会見のぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気会談進められていたのを確認している。天皇帰った後、ジーンマッカーサーから天皇発言の内容聞かされたが、『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。また、ジーン会いたい皇后希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく、結局実現しなかった。 マッカーサー昭和天皇一緒に出迎えた会談には同席していない)マッカーサー専属通訳で歌舞伎救った男」として有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください彼等戦争中行為は私の名においてなされた責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇語った証言している。 極東国際軍事裁判首席検事ジョセフ・キーナン田中隆吉少将に「マッカーサー元帥面会した際、元帥はこう言った自分昨年9月末に日本の天皇面会した天皇はこの戦争は私の命令行ったのであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰しもらいたいと言った。もし天皇裁判付せば、裁判法廷天皇そのように主張するであろうそうなれば、この裁判成立しなくなるから、日本の天皇裁判出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法天皇のことを調査したが、天皇平和主義者であることが明らかとなった。……私としては、天皇無罪にしたい。貴君そのように努力してほしい」と言ったとされる1955年8月渡米した当時外務大臣重光葵アメリカでマッカーサー会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任とります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官軍人および政治家行為に対して直接責任負います自分自身運命について、貴下判断如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わず総ての事を進めていただきたい」これが陛下お言葉でした。私はこれを聞いて興奮余り陛下キスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首対す占領軍司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている。重光渡米前那須御用邸昭和天皇拝謁したが、その際昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥会合の機もあらば、自分米国人との友情忘れた事はない。米国との友好関係終始重んずるところである。特に元帥友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光依頼している。マッカーサー昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下御出会いして以来戦後の日本幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言する憚らないのであるそれにもかかわらず陛下なされたことは未だかつて十分に世に知られ居らぬ十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられ陛下平和貢献仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている。 以上、内容証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分マッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中にはマッカーサー政治顧問ジョージ・アチソンマッカーサーから聞いた話として「裕仁マッカーサー訪問したとき、天皇マッカーサー待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府日本宣戦布告受け取前に真珠湾攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民指導者であり、国民行動に責在がある』と言った」と東條英機にも責任があるとも取れ発言をしたとの証言もある。この証言は、『ニューヨーク・タイムズ』が昭和天皇マッカーサー会談2日前に単独インタビュー天皇行いその際記者が「宣戦詔書真珠湾攻撃開始するために東條大将使用した如く使用されるというのは、陛下ご意思ありましたか?」と質問したのに対し天皇が「宣戦詔書東條大将使用した如くに(奇襲攻撃のため)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト真珠湾奇襲責任をトージョーにおしつける」という大見出し躍ることとなった事実符合しており、この際昭和天皇の発言をもって天皇マッカーサーとの会見でも東條責任押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる。 一方で日本側は、昭和天皇の他に通訳として外務省奥村勝蔵同席した。その奥村会談内容会談後にまとめ、外務省宮内庁保管していた『御会見録』が2002年情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるよう昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスルデアリマス」「私モ日本国民敗戦現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス」とかなりトーンダウンしている。これは、作家児島襄1975年取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが、奥村の後を継いで天皇通訳務めた外務省松井明が、天皇マッカーサー、リッジウェイとの会見詳細記述した松井文書によれば松井が「天皇一切責任を負われるという発言については、事の重大さ顧慮し自分判断記録から削除した」と奥村から直接聞いた記述している。 また、この会見同行した会見の場に同席はしていない侍従長・藤田尚徳著書侍従長回想によれば、「外務省でまとめた会見模様」が便箋5にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦至った戦争の、色々な責任追及されているが、責任全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろう構わない。私は貴方に委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国援助お願いしたいであったという。この便箋昭和天皇御覧供したが、そのまま藤田の手元に返ってこなかったとのことであった。ただし、この記述外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料引用した可能性指摘されている。 いずれにしても昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサー天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇「You」呼び奥村通訳求める時も「Tell The Emperor天皇告げよ)」と高圧的だったが、その後天皇を呼ぶときは「Your Majesty陛下)」と尊厳込めて呼ぶようになった証言している。 そしてマッカーサーは、1946年1月25日米陸軍宛て天皇に関する長文極秘電文打ったが、その内容は「天皇戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像つかないほどの動揺引き起こされるであろうその結果もたらされる混乱鎮めるのは不可能である」「天皇葬れ日本国家は分解する」「政府の諸機構崩壊し文化活動停止し混沌無秩序はさらに悪化し山岳地帯地方ゲリラ戦発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義導入するといった希望ことごとく消え去り引き裂かれ国民の中から共産主義路線沿った強固な政府生まれであろう」「これらの事態勃発した場合100万人の軍隊半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントン脅す内容で、アメリカ政府内での天皇戦犯問題は、この電文により不問との方針大方の合意形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治不可能だったマッカーサー救われたことになり、この会談の意義極めて大きかったといえるマッカーサー天皇権威日本統治利用したように、日本側も昭和天皇の身の安全の保障と、民主主義国家日本象徴として天皇制存続のためにマッカーサー進駐軍利用すべく懐柔した。日本政府皇室は、アメリカ人貴族的な華麗虚飾を好む性質見抜くと、マッカーサー進駐軍最上層部に宮中優雅な行事への招待状定期的に送った。その行事とは皇居での花見蛍狩り竹の子狩り伝統的な武道御前試合などであったが、特にアメリカ人喜ばせたのは皇居行われる鴨猟であった皇室鴨猟アメリカ人たちがする銃猟ではなく絹糸作られ叉手網さであみ)と呼ばれる手持ちの網で飛び立つ捕らえるという猟の手法であり、宮廷らしい優雅さが、連合軍高官政府要人たちに好まれた。マッカーサー本人参加しなかったが、妻のジーン子供アーサー・マッカーサー4世喜々として参加したまた、多くGHQ高官の他、東京裁判関係者ウィリアム・ウェブ裁判長ジョセフ・キーナン首席検事なども喜んで参加し日本での忘れがたい思い出となった。そして宮中行事参加したアメリカ人らには皇室菊の紋章つきの引き出物贈られた。GHQアメリカマスコミ日本の「アメリカ化」を得意となって誇っている間に、皇室中心とする日本人は静かで巧みにアメリカ人日本化して目的達しようとしていたのである。そして昭和天皇の身の安全と天皇制存続をはかるというアメリカ日本共同作業最終的に功を奏することとなった

※この「昭和天皇との会談」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「昭和天皇との会談」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。

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