昭和天皇との関係
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田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」 という昭和天皇の発言を自著に記している。 一方、1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王と昭和天皇長女東久邇成子の子)と伊藤忠商事社員との結婚式で、瀬島龍三夫妻が媒酌人として執り行われることとなった。それを受けて、スリランカ民主社会主義共和国大統領が来日しその歓迎晩餐会が宮中において催された際、宮殿の別室に於いて同じく招待を受けた瀬島龍三夫妻は昭和天皇に拝謁した。その席で「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母(東久邇成子)と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も良子も大変喜んでいる。どうか宜しくお願い申し上げたい」という言葉を発し瀬島夫妻に孫娘の結婚に際し御礼を述べた、と瀬島は自著で主張しているが、このような言葉があったのかは不明である。
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昭和天皇との関係
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昭和天皇の87年の生涯を記録した『昭和天皇実録』において、幼少期の遊びとして登場する遊びの名称としてクロキノールと良く似た「クロックノール」の語が、学習院初等科入学前後に少なくとも4回登場する。これがどの様な遊びであったかは宮内庁も「わからない」としているが、「当時、(幼少の昭和天皇が)大変熱心にされていた遊びだった。その事実を記した」とコメントしていた。弟の秩父宮(秩父宮雍仁親王)も同様の遊びをしていたという。 1903年に日本で発行されたクロキノールの教本である『クロック術』によると、当時クロキノールが「クロックノール」と呼ばれていたことが伺える。
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