昭和天皇に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 15:11 UTC 版)
「二・二六事件」の記事における「昭和天皇に与えた影響」の解説
2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあったと言われている。たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった。2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。しかし、実際には「同志」の間柄の人々ですら地方から駆けつけてくるようなことは無かったため、革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったフシがあり、また陸軍大臣らの行動も、単に事態を丸く収めようとしただけであり、反乱に同調していたわけでは無かったと考えられる。 「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。このように、日本軍の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。 これについて、蹶起将校の一人である磯部浅一は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏を恨みました」。ロシア革命は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、一家ともども虐殺された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、皇室がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。 もともと大日本帝国憲法下では、天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた(張作霖爆殺事件の処理に関して、内閣総理大臣田中義一を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の2つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件も鈴木貫太郎が関わっている)。 それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていた。また、1981年1月17日に現在の警視庁本部庁舎を視察した際に、今泉正隆警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と訊ねている。
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