聖堂と聖杯のカトリック・薔薇十字会
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「星たちの息子」の記事における「聖堂と聖杯のカトリック・薔薇十字会」の解説
「星たちの息子」の原作者サール・ペラダンは、フランス出身のオカルティストである。本名をジョゼフ・ペラダンと言い、1858年にリヨンに生まれた。後に自らジョゼファン・ペラダンを名乗るようになった。父親の名前はアドリアン・ペラダンである。 19世紀末の西ヨーロッパではオカルト趣味が大流行していた。当時は、カトリック教会の教義を援用しながら、オカルト的なその分派を作ったり、芸術活動を行うことはそれほど珍しいことではなく、アドリアンもまた「我らの主イエス・キリストの左肩の傷」という名の教団を作って運営していた。また、この頃には、薔薇十字の名前を冠したオカルト団体が大量に生まれていた。 熱烈なワグネリアンだったペラダンがバイロイトに赴いた際、ワーグナーはペラダンの神秘主義に関する知識の豊富さに打たれ、ペラダンと交際するようになった。 1885年、ペラダンは神秘主義小説『至高の悪徳』を刊行し、この本を携えてパリに戻った。この小説はある程度は評判になった作品で、サティも『至高の悪徳』を愛読していた。 この小説に興味を示した1人がスタニスラス・ド・ガイタ(英語版)である。ガイタはペラダンと共に「薔薇十字カバラ会(英語版)」を設立、ペラダンは同会の美学部長を務めた。 しかし、ガイタは筋金入りのカバリストであったのに対して、ペラダンはいかがわしい日和見主義者だった。 ペラダンは教義をめぐってガイタと仲たがいし決裂、分派を作る。ペラダンは、”霊体”による叙階によってカルデアの僧たちからサール・メドラクという宗名を授けられたと主張、サール・ペラダンを名乗るようになった。 1890年、ペラダンは自身の宗教こそが正統ローマ・カトリックであると主張し、「7人組」(アントワーヌ・ド・ラ・ロシュフーコー伯爵や詩人のサン=ポル・ルーら) と共に新たな教団「聖堂と聖杯とカトリック・薔薇十字会」を結成する。 結成と同じ年、サティはペラダンの「薔薇十字会」に入会、教団公認の作曲家 (専属作曲家兼同教団聖歌隊長) になり、1892年までの間に「薔薇十字会」のために4曲 (『薔薇十字教団の最初の思想』『薔薇十字教団のファンファーレ』『星たちの息子』『救いの旗のための頌歌』) を書いた。 しかし、サティはペラダンの専横に我慢できず、1892年8月、『ジル・ブラース』紙上に公開絶縁状を公表し、「薔薇十字会」と手を切った。 代わって、サティは自分のアパート内に「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教団」という教団を設立し、自らその司祭兼聖歌隊長を名乗った。当然のことながら、この「メトロポリタン教団」の信者はサティ1人しかいない。
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