聖堂と聖杯のカトリック・薔薇十字会とは? わかりやすく解説

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聖堂と聖杯のカトリック・薔薇十字会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 13:49 UTC 版)

星たちの息子」の記事における「聖堂と聖杯のカトリック・薔薇十字会」の解説

星たちの息子」の原作者サール・ペラダンは、フランス出身オカルティストである。本名をジョゼフ・ペラダンと言い1858年リヨン生まれた。後に自らジョゼファン・ペラダン名乗るようになった父親の名前はアドリアン・ペラダンである。 19世紀末西ヨーロッパではオカルト趣味大流行していた。当時は、カトリック教会教義援用しながらオカルト的なその分派を作ったり、芸術活動を行うことはそれほど珍しいことではなくアドリアンもまた「我ら主イエス・キリストの左肩の傷」という名の教団作って運営していた。また、この頃には、薔薇十字の名前を冠したオカルト団体大量に生まれていた。 熱烈なワグネリアンだったペラダンがバイロイト赴いた際、ワーグナーはペラダンの神秘主義に関する知識豊富さ打たれ、ペラダンと交際するようになった1885年、ペラダンは神秘主義小説至高悪徳』を刊行し、この本を携えてパリ戻った。この小説ある程度評判になった作品で、サティも『至高悪徳』を愛読していた。 この小説興味示した1人がスタニスラス・ド・ガイタ(英語版)である。ガイタはペラダンと共に薔薇十字カバラ会(英語版)」を設立、ペラダンは同会の美学部長務めた。 しかし、ガイタ筋金入りカバリストであったに対して、ペラダンはいかがわしい日和見主義者だった。 ペラダンは教義めぐってガイタ仲たがい決裂分派作る。ペラダンは、”霊体”による叙階によってカルデアの僧たちからサール・メドラクという宗名を授けられたと主張、サール・ペラダンを名乗るようになった1890年、ペラダンは自身宗教こそが正統ローマ・カトリックであると主張し、「7人組」(アントワーヌ・ド・ラ・ロシュフーコー伯爵詩人サン=ポル・ルーら) と共に新たな教団聖堂聖杯カトリック薔薇十字会」を結成する結成と同じ年、サティはペラダンの「薔薇十字会」に入会教団公認作曲家 (専属作曲家兼同教団聖歌隊長) になり、1892年までの間に「薔薇十字会」のために4曲 (『薔薇十字教団最初思想』『薔薇十字教団のファンファーレ』『星たちの息子』『救いの旗のための頌歌』) を書いた。 しかし、サティはペラダンの専横我慢できず、1892年8月、『ジル・ブラース』紙上公開絶縁状公表し、「薔薇十字会」と手を切った。 代わって、サティ自分アパート内に「主イエス導かれる芸術メトロポリタン教団」という教団設立し、自らその司祭聖歌隊長を名乗った当然のことながら、この「メトロポリタン教団」の信者サティ1人かいない

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