初期ルネサンスとは? わかりやすく解説

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ルネサンス

(初期ルネサンス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 06:26 UTC 版)

ルネサンス: Renaissance[† 1][† 2] :Rinascimento)は、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代ギリシアローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。


注釈

  1. ^ フランス語発音: [ʁənɛsɑ̃ːs] ルネサーンス
  2. ^ イギリス英語発音:[rɪˈneɪsns] リイスンス、かアメリカ英語発音:[ˈrenəsɑːns] ナサーンス

出典

  1. ^ 林達夫「文芸復興」、花田清輝「復興期の精神」など。
  2. ^ 通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。
  3. ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト中央公論社1966、37頁上。- Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 718-720 (Beitrag zu „Renaissance, Karolingische“), besonders S. 718.
  4. ^ 『世界史序説 アジア史から一望する』岡本隆司、ちくま新書、2018年、p191
  5. ^ 樺山紘一「ルネサンス」講談社学術文庫P51-52、P121-122
  6. ^ 「医学の歴史」pp139 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷
  7. ^ ハワード・R・ターナー、久保儀明訳「図説科学で読むイスラム文化」青土社、2001年
  8. ^ 澤井繁男「イタリア・ルネサンス」講談社現代新書p152-164
  9. ^ 「キリスト教の歴史」p129 小田垣雅也 講談社学術文庫 1995年5月10日第1刷
  10. ^ ピーター・バーク 著、亀長洋子 訳『ルネサンス(ヨーロッパ史入門)』岩波書店、2005年11月25日、62頁。ISBN 9784000270960 
  11. ^ 徳善義和『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波書店〈岩波新書〉、2012年、155–159頁。ISBN 9784004313724 
  12. ^ モーリス・ブロール 著、西村六郎 訳『オランダ史』白水社、1994年3月30日、25–26頁。 
  13. ^ 河原温『ブリュージュ: フランドルの輝ける宝石』中公新書、2006年、170頁。ISBN 4-12-101848-6OCLC 674930479 
  14. ^ ジュール・ミシュレ 著、大野 一道 編『フランス史』 Ⅲ、藤原書店、2010年。ISBN 9784894347571 
  15. ^ 上垣豊『はじめて学ぶフランスの歴史と文化』(初版)ミネルヴァ書房、2020年3月31日、55頁。ISBN 9784623087785 


「ルネサンス」の続きの解説一覧

初期ルネサンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:35 UTC 版)

ルネサンス建築」の記事における「初期ルネサンス」の解説

ナポリ王国との戦争集結した1414年から、ミラーノ公国との戦争が始まる1424年までのフィレンツェは、後に黄金時代回想されるほどの経済的繁栄謳歌した時期であり、初期ルネサンスの芸術活動において最も活動的な時代であった。この時期活躍したのが、ルネサンス最初建築家として名を挙げられるフィリッポ・ブルネッレスキである。 ただし、彼のいくつかの意匠的な着想は、11世紀から12世紀にかけて建設されトスカーナ地方固有のロマネスク建築、および15世紀通じて影響力保ち続けた国際ゴシック様式にある。彼が最初に設計した捨子保育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティ)のポーティコに見られる細いアーチ連続させるファサードは、フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂、サン・マッテオ施療院などに用いられているモティーフであり、また、サン・ロレンツォ聖堂の略丁字平面や、サント・スピーリト聖堂にも見られる柱頭などのデザインも、ロマネスク建築、あるいはビザンティン建築見られるのである。 それにも関わらず、彼がルネサンス最初建築家とされているのは、それまで建築が、石工たちの伝統経験想像力頼り行われていたのに対し、ブルネッレスキのそれは、ローマ古代建築研究はじまり、内部空間数学的比例組み合わせ構築したほか、実際施工における諸問題について工学的助言発明を行うなど、自由学芸的なアプローチを採ったことにある。捨子保育院は単純な整数比グリットをもとに計画されサン・ロレンツォ聖堂、サント・スピーリト聖堂においても、内部空間身廊の高さ・幅、側廊の高さ・幅などの比例関係平面だけではなく細部デザインにも繰り返されており、基準となるモデュール建物細部意匠にまで割り当てられる、というルネサンス建築特有の静的秩序によって構成されている。その名声世に知らしめたサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂ドーム設計では、仮枠地上から構築するではなくドーム直接足場設けることで仮枠を必要としない二重ドーム構造提唱したほか、ドーム建設過程生じた問題に対してウィンチクレーンどの様々な機械特殊船舶などを考案したこのような事績は、少なくとも建築伝統的職人芸とするそれまで概念では捉えられないものであり、後に建築自由学芸とする考え方の礎となった彼のこうした建築理念は、ルネサンス最初の完全な有心教会堂サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ修道院礼拝堂(オラトリウム)に現れている。この修道院人文主義運動の中心的役割担ったところで、平面計画院長であるアンブロージョ・トラヴェルサリの発案よるもの考えられている。また、その建築1437年ルッカとの戦争による資金凍結工事中断したため未完となっている(当時完成したのは最外周壁の上部まで)が、八角形集中平面や厚い壁を抉るように設けられ壁龕などは、初期キリスト教建築集中聖堂のみでなく、古代ローマ時代建築物想起させるものであり、アントーニオ・ダ・サンガッロやレオナルド・ダ・ヴィンチドナート・ブラマンテといった後代ルネサンス建築家たちがスケッチ残し、また模倣した建築物であった1424年ミラーノ公国との戦争勃発すると、すでに後退し初めていたフィレンツェ経済打撃を受け、さらに1429年に始まるルッカ征服戦争惨憺たる失敗終わったことで、フィレンツェ財政危機加えて深刻な政治的混乱を招くことになった。この政治動乱は、1434年に、コジモ・デ・メディチ追放先から帰還しフィレンツェ新たな政治体制確立するまで続きその間都市建築物費やされる公的資金凍結、または大幅に削減された。建築活動が再び活発になるのは、1440年代になってからである。 ウィトルウィウス著作から、古典主義建築必須の要素であるオーダー比例理論抽出し、これにはじめて論理的な説明加えたのは、レオン・バッティスタ・アルベルティである。 彼はあらゆる芸術と文学教養修めた人物であるが、それまで彼のような学者建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティ1443年頃からウィトルウィウスの『建築について』に注目し、これに倣って建築論』をまとめ、建築本質哲学数学考古学にあるとしてその重要性提示した。彼が特に注目したのは人体比例建築比例同一ものとする文章であらゆる比例関係基本人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築根本原理となった。『建築論』は1452年までには一応完成したが、アルベルティ死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく1485年になってからである。 アルベルティ著作だけでなく建築設計をも行い三次元的に自身理論証明した。パッツォ・ルチェッライは、正面ローマコロッセオ構成用い付柱ピラスター)によって鈍重な壁面分節しているが、これはオーダー全面的に使用した最初試みである。同時期にリミニのサント・フランチェスコ聖堂をテンピオ・マラテスティアーナに改装する設計では、正面ローマコンスタンティヌス記念門リミニアウグストゥス記念門構成組み合わせ古典主義による教会堂正面計画に道を開いた。しかし、アルベルティ盲目的にローマ建築模倣したわけではなくこのような構成用いて全体調和一致させることに美の本質があると考えた彼の最後作品となったサンタンドレア聖堂は、1470年頃に設計された最も影響力大きな作品である。伝統的なラテン十字平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊建造するためにブルネレスキ設計したバシリカ形式採用しておらず、このため内部より一層古典的な形態になった正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマ凱旋門モティーフにしているが、その比例構成内部身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体一定の調和によって統一している。 ブルネレスキ設計は、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ継承されており、パラッツォ・メディチ・リッカルディの中庭には捨子保育院のファサード影響見られるアルベルティ実作直接模倣されたものがわずかだったため、その影響をたどるのは難しいが、彼の人間性建築論絶大な影響与えることになった教皇ピウス2世はアベルティの影響を受け、アルベルティ助手であるベルナルド・ロッセリーノ雇いピエンツァのパラッツォ・ピッコロミーニの建設において、自身建築設計参画した。全体としては、どちらかというとゴシック関心の強い、曖昧な古典主義だが、パラッツォ・ピッコロミーニ正面におけるアルベルティ影響歴然である。 ウルビーノで、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロピエロ・デラ・フランチェスカルチアーノ・ラウラーナ、そしてフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ設計させたパラッツォ・ドゥカーレは、建設に際してアルベルティ助言もあったと思われる。特に宮殿中庭は、初期ルネサンスの最も素晴らし中庭とされる彼の影響ローマにも及び、ジャコモ・ダ・ピエトラサンタやメーオ・デル・カプリーノ・ダ・セッティニャーノらの設計した教会堂にそれは現れているが、特にパラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアは、アルベルティ考え理解し拡張した優れた建築である(ヴァザーリによればドナト・ブラマンテの手よるものとされる)。 ブルネレスキアルベルティの手法は、最終的にジュリアーノ・ダ・サンガッロによって引き継がれた。彼は初期から盛期にいたるルネサンス建築継承者であり、フィレンツェのほかローマで設計活動行ったポッジョ・ア・カイアーノのヴィッラ・メディチやプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂のほか、ベネディット・ダ・マイアーノ、イル・クローナカと共にパラッツォ・ストロッツィを設計している。しかし、その設計手法15世紀末にはすでに保守的なものと見なされ、16世紀初頭サン・ピエトロ大聖堂再建が行われる際には、ドナト・ブラマンテに遅れをとった。

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