ルネサンス
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ルネサンス(仏: Renaissance[† 1][† 2] 伊:Rinascimento)は、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
注釈
- ^ フランス語発音: [ʁənɛsɑ̃ːs] ルネサーンス
- ^ イギリス英語発音:[rɪˈneɪsns] リネイスンス、かアメリカ英語発音:[ˈrenəsɑːns] レナサーンス
出典
- ^ 林達夫「文芸復興」、花田清輝「復興期の精神」など。
- ^ 通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。
- ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社1966、37頁上。- Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 718-720 (Beitrag zu „Renaissance, Karolingische“), besonders S. 718.
- ^ 『世界史序説 アジア史から一望する』岡本隆司、ちくま新書、2018年、p191
- ^ 樺山紘一「ルネサンス」講談社学術文庫P51-52、P121-122
- ^ 「医学の歴史」pp139 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷
- ^ ハワード・R・ターナー、久保儀明訳「図説科学で読むイスラム文化」青土社、2001年
- ^ 澤井繁男「イタリア・ルネサンス」講談社現代新書p152-164
- ^ 「キリスト教の歴史」p129 小田垣雅也 講談社学術文庫 1995年5月10日第1刷
- ^ ピーター・バーク 著、亀長洋子 訳『ルネサンス(ヨーロッパ史入門)』岩波書店、2005年11月25日、62頁。ISBN 9784000270960。
- ^ 徳善義和『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波書店〈岩波新書〉、2012年、155–159頁。ISBN 9784004313724。
- ^ モーリス・ブロール 著、西村六郎 訳『オランダ史』白水社、1994年3月30日、25–26頁。
- ^ 河原温『ブリュージュ: フランドルの輝ける宝石』中公新書、2006年、170頁。ISBN 4-12-101848-6。OCLC 674930479。
- ^ ジュール・ミシュレ 著、大野 一道 編『フランス史』 Ⅲ、藤原書店、2010年。ISBN 9784894347571。
- ^ 上垣豊『はじめて学ぶフランスの歴史と文化』(初版)ミネルヴァ書房、2020年3月31日、55頁。ISBN 9784623087785。
初期ルネサンス
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ナポリ王国との戦争が集結した1414年から、ミラーノ公国との戦争が始まる1424年までのフィレンツェは、後に黄金時代と回想されるほどの経済的繁栄を謳歌した時期であり、初期ルネサンスの芸術活動において最も活動的な時代であった。この時期に活躍したのが、ルネサンス最初の建築家として名を挙げられるフィリッポ・ブルネッレスキである。 ただし、彼のいくつかの意匠的な着想は、11世紀から12世紀にかけて建設されたトスカーナ地方固有のロマネスク建築、および15世紀を通じて影響力を保ち続けた国際ゴシック様式にある。彼が最初に設計した捨子保育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティ)のポーティコに見られる細いアーチを連続させるファサードは、フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、サン・マッテオ施療院などに用いられているモティーフであり、また、サン・ロレンツォ聖堂の略丁字型平面や、サント・スピーリト聖堂にも見られる副柱頭などのデザインも、ロマネスク建築、あるいはビザンティン建築に見られるものである。 それにも関わらず、彼がルネサンス最初の建築家とされているのは、それまでの建築が、石工たちの伝統と経験、想像力を頼りに行われていたのに対し、ブルネッレスキのそれは、ローマの古代建築の研究にはじまり、内部空間を数学的比例の組み合わせで構築したほか、実際の施工における諸問題について工学的な助言や発明を行うなど、自由学芸的なアプローチを採ったことにある。捨子保育院は単純な整数比のグリットをもとに計画され、サン・ロレンツォ聖堂、サント・スピーリト聖堂においても、内部空間は身廊の高さ・幅、側廊の高さ・幅などの比例関係が平面だけではなく、細部のデザインにも繰り返されており、基準となるモデュールが建物の細部の意匠にまで割り当てられる、というルネサンス建築特有の静的な秩序によって構成されている。その名声を世に知らしめたサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のドームの設計では、仮枠を地上から構築するのではなく、ドームに直接足場を設けることで仮枠を必要としない二重ドーム構造を提唱したほか、ドーム建設の過程で生じた問題に対して、ウィンチ、クレーンなどの様々な機械や特殊船舶などを考案した。このような事績は、少なくとも建築を伝統的職人芸とするそれまでの概念では捉えられないものであり、後に建築を自由学芸とする考え方の礎となった。 彼のこうした建築理念は、ルネサンス最初の完全な有心型教会堂、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ修道院の礼拝堂(オラトリウム)に現れている。この修道院は人文主義運動の中心的役割を担ったところで、平面計画も院長であるアンブロージョ・トラヴェルサリの発案によるものと考えられている。また、その建築は1437年にルッカとの戦争による資金凍結で工事が中断したため未完となっている(当時完成したのは最外周壁面の上部まで)が、八角形の集中式平面や厚い壁を抉るように設けられた壁龕などは、初期キリスト教建築の集中式聖堂のみでなく、古代ローマ時代の建築物を想起させるものであり、アントーニオ・ダ・サンガッロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ドナート・ブラマンテといった後代のルネサンス建築家たちがスケッチを残し、また模倣した建築物であった。 1424年にミラーノ公国との戦争が勃発すると、すでに後退し初めていたフィレンツェ経済は打撃を受け、さらに1429年に始まるルッカ征服戦争が惨憺たる失敗に終わったことで、フィレンツェは財政危機に加えて、深刻な政治的混乱を招くことになった。この政治動乱は、1434年に、コジモ・デ・メディチが追放先から帰還し、フィレンツェに新たな政治体制を確立するまで続き、その間、都市の建築物に費やされる公的資金は凍結、または大幅に削減された。建築活動が再び活発になるのは、1440年代になってからである。 ウィトルウィウスの著作から、古典主義建築に必須の要素であるオーダーの比例理論を抽出し、これにはじめて論理的な説明を加えたのは、レオン・バッティスタ・アルベルティである。 彼はあらゆる芸術と文学の教養を修めた人物であるが、それまで、彼のような学者が建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティは1443年頃からウィトルウィウスの『建築について』に注目し、これに倣って『建築論』をまとめ、建築の本質が哲学、数学、考古学にあるとしてその重要性を提示した。彼が特に注目したのは人体比例と建築比例を同一のものとする文章で、あらゆる比例関係の基本が人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築の根本原理となった。『建築論』は1452年までには一応完成したが、アルベルティは死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく1485年になってからである。 アルベルティは著作だけでなく建築の設計をも行い、三次元的に自身の理論を証明した。パッツォ・ルチェッライは、正面にローマのコロッセオの構成を用い、付柱(ピラスター)によって鈍重な壁面を分節しているが、これはオーダーを全面的に使用した最初の試みである。同時期に、リミニのサント・フランチェスコ聖堂をテンピオ・マラテスティアーナに改装する設計では、正面にローマのコンスタンティヌス記念門とリミニのアウグストゥス記念門の構成を組み合わせ、古典主義による教会堂正面の計画に道を開いた。しかし、アルベルティは盲目的にローマ建築を模倣したわけではなく、このような構成を用いて全体の調和を一致させることに美の本質があると考えた。彼の最後の作品となったサンタンドレア聖堂は、1470年頃に設計された最も影響力の大きな作品である。伝統的なラテン十字型平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊を建造するためにブルネレスキが設計したバシリカ形式を採用しておらず、このため内部はより一層古典的な形態になった。正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマの凱旋門をモティーフにしているが、その比例と構成は内部の身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体を一定の調和によって統一している。 ブルネレスキの設計は、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオに継承されており、パラッツォ・メディチ・リッカルディの中庭には捨子保育院のファサードの影響が見られる。アルベルティの実作は直接模倣されたものがわずかだったため、その影響をたどるのは難しいが、彼の人間性と建築論は絶大な影響を与えることになった。教皇ピウス2世はアベルティの影響を受け、アルベルティの助手であるベルナルド・ロッセリーノを雇い、ピエンツァのパラッツォ・ピッコロミーニの建設において、自身も建築の設計に参画した。全体としては、どちらかというとゴシック的関心の強い、曖昧な古典主義だが、パラッツォ・ピッコロミーニ正面におけるアルベルティの影響は歴然である。 ウルビーノで、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがピエロ・デラ・フランチェスカ、ルチアーノ・ラウラーナ、そしてフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに設計させたパラッツォ・ドゥカーレは、建設に際してアルベルティの助言もあったと思われる。特に宮殿の中庭は、初期ルネサンスの最も素晴らしい中庭とされる。彼の影響はローマにも及び、ジャコモ・ダ・ピエトラサンタやメーオ・デル・カプリーノ・ダ・セッティニャーノらの設計した教会堂にそれは現れているが、特にパラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアは、アルベルティの考えを理解し、拡張した優れた建築である(ヴァザーリによればドナト・ブラマンテの手によるものとされる)。 ブルネレスキとアルベルティの手法は、最終的にジュリアーノ・ダ・サンガッロによって引き継がれた。彼は初期から盛期にいたるルネサンス建築の継承者であり、フィレンツェのほかローマでも設計活動を行った。ポッジョ・ア・カイアーノのヴィッラ・メディチやプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂のほか、ベネディット・ダ・マイアーノ、イル・クローナカと共にパラッツォ・ストロッツィを設計している。しかし、その設計手法は15世紀末にはすでに保守的なものと見なされ、16世紀初頭にサン・ピエトロ大聖堂の再建が行われる際には、ドナト・ブラマンテに遅れをとった。
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