建築論
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ルネサンス建築に大きな影響を与えたウィトルウィウスの『建築について(De architectura libri decem)』は、1415年にポッジョによって再発見されたといわれるが、14世紀にはボッカチオが引用するなど、実際にはこの当時よく知られた古典論文のひとつであった。 この建築論は、1432年頃にアルベルティによって詳細に研究され、彼自身の『建築論(De re aedificatoria)』によって再構築された。オーダーに関する理論は、アルベルティによって意味を与えられたが、彼はウィトルウィウスと同じく、オーダーを建築に必須の規則とは見なさず、あくまでも客観的な立場で解説したにすぎなかった。アルベルティが注目したのは、人体比例と建築の比例を同一とみなす理論であり、あらゆる比例尺度の根本が人間の形態であるという思想は、宇宙の全ての調和にも通じるルネサンスの比例システムとなった。アルベルティの著作はルネサンス最初の建築書であり、初は写本であったが、1485年には当時発明された活版印刷技術によって広く読まれた。フランチェスコ・マルティーニの『市民建築および軍事建築に関する理論書(Trattato di Archiettura civile e militare)』(1482年頃)は、アルベルティの論文にかなりの部分を負っている。 アントニオ・フィラレーテは、ミラノでルネサンス様式の導入を試みた最初の人物であり、『建築論(Trattato di Archietttura)』において野蛮な現代風の流儀(ゴシック建築のこと)の放棄を訴えた。彼の論文に述べられる理想都市スフォルズィンダは、様々な建築を対称に配置した有心的な都市計画を提唱したヨーロッパ最初の例であるが、実際に設計したオスペダーレ・マジョーレにも見られる集中形式に対する関心は、ミラノのサン・サチーロ墳墓祭堂(875年 )やミケロッツォが 1425年にピストイアにおいて設計したサンタ・マリア・デル・グラツィエ聖堂に刺激されたものであろう。 15世紀、16世紀の建築思想にきわめて重要な影響を与えたのは、セバスティアーノ・セルリオが1537年から1551年の間に刊行した『建築書(L’Architettura)』である。彼は、古典建築の理論を全面的に図式化したため、古典的教養を持たない職人や貴族らに広く受け入れられた。オーダーを5つにコード化し、これをラテン語の文法におけるところの四つの活用であると述べるセルリオの語り口は非常に効果的で、建築の手本としてヨーロッパ中で読まれた。ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラは、オーダーをさらに洗練し、かつ学問的なものとした。はじめてオーダーの名称を用いたのも彼である。『建築の5つのオーダー(Regola delli Cinque Ordini d’Architettura)』(1562年)は、精密な銅版画とその注釈、および序文によって構成されるが、様々な建築的課題に対処できる建築原理の体系を確立しようとする彼の努力が現れている。 『建築四書(Quattro Libri dell’ Architettura)』(1570年出版)は、アンドレア・パラーディオによるオーダー、住宅建築、公共建築、神殿の図解や記録であり、古典主義建築家としての声明とも言える。パラーディオのウィトルウィウスに関する知識は当時一級のものであり、彼は考古学的側面でだけではなく、独自の解釈をも見いだしている。パラーディオの比例理論は音階に基づく複雑な調和によって成り立っており、それは一室で独立したものではなく、一連の続き部屋にまで適用されている。ウィトルウィウスとローマの遺跡、そしてブラマンテの建築を詳細に研究したこの著作は、イタリアのみならずヨーロッパ全土に影響を与え、特にイギリスにおいて、特に重要な衝撃を与えることになった(パラーディオ主義建築)。これらルネサンス建築論の集大成は1615年に完成したヴィンチェンツォ・スカモッツィの『普遍的建築の理念(L’idea dell’ architettura universale)』である。これは古代から中世、ルネサンスに至る建築に言及したアカデミックな理論書であり、またアルベルティにはじまるオーダー理論の集大成として、特にイギリスに影響を与えた。
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