15世紀、16世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 00:00 UTC 版)
スコットランド王ジェームズ2世が幼少だった時期、サー・ジョン・コフーン (Sir John Colquhoun) は、王の城であったダンバートン城の城代 (governor) に任じられた。しかし、サー・ジョンは1439年のインチマリン島(英語版)における襲撃の際に殺害された。後を継いだ同名の息子であるサー・ジョンは、後に王室財務の監査官 (Comptroller of the Royal Household) に出世した。1457年には、彼が所有する領地すべてをルス自由男爵領 (the free barony of Luss) として一元化することを認める勅許状が与えられた。翌年、サー・ジョンはさらに、ロスドゥ (Rossdhu) とグレンマコーム (Glenmachome) の森と、キルマーディニー湖(英語版)周辺の土地を与えられた。 1474年、サー・ジョンは、イングランド王エドワード4世のもとに派遣された使節団の一員に加わり、エドワードの娘セシリア(セシリー・オブ・ヨーク(英語版))と、スコットランドの幼王ジェームズ4世の婚約に向けた交渉にあたった。その後、サー・ジョンは、反乱軍に占拠されたダンバー城(英語版)の攻城戦に加わったが、そこで大砲の砲撃を受けて落命した。 クラン・コフーンは、カムストラデン城 (Camstradden Castle) も支配下に置いていたが、これは1395年に、ルスの(長男ではない)息子のひとりが手に入れた城であった。コフーン家として6代目のカムストラデンの領主 (Laird) は、高名な騎士であり、1547年のピンキー・クルーの戦い(英語版)にも加わった。
※この「15世紀、16世紀」の解説は、「コフーン氏族」の解説の一部です。
「15世紀、16世紀」を含む「コフーン氏族」の記事については、「コフーン氏族」の概要を参照ください。
15世紀 - 16世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/24 06:24 UTC 版)
「スロバキア語の歴史」の記事における「15世紀 - 16世紀」の解説
スロバキア語は行政上の目的のために使用され続ける。文語チェコ語も一部のスロバキア人により、一部の目的(通信文書、ある種の契約、庶民向けの宗教書等)のために(ラテン語とともに)用いられたが、それにはほとんどの場合多くのスロバキア語の要素を含んでおり、高度な教育を受けていない人々によって書かれた文は常にスロバキア語で書かれていた。チェコ語が用いられた理由として、スロバキア人国家が存在しなかったために標準スロバキア語がなかったこと(それに対しチェコ語はおおよそ標準語となっていた)、スロバキア人にとってはラテン語より学ぶのが容易だったという事実、多くのスロバキア人がプラハ大学で学んでいたこと、スロバキアにおけるチェコのフス派やヤーン・イスクラ(Ján Jiskra)の運動の影響、そしてハンガリー王マーチャーシュ1世によるモラヴィアの一時的な征服、が挙げられる。16世紀に、洗練された西スロバキア、中央スロバキアおよび東スロバキア語が用いられ始めた(のち18世紀によく用いられるようになった)。
※この「15世紀 - 16世紀」の解説は、「スロバキア語の歴史」の解説の一部です。
「15世紀 - 16世紀」を含む「スロバキア語の歴史」の記事については、「スロバキア語の歴史」の概要を参照ください。
- 15世紀、16世紀のページへのリンク