15世紀から17世紀にかけてのクレタ島
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「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」の解説
クレタ島はヴェネツィアの植民地の中ではもとより最も重要なものであったが、その重要性は1453年のコンスタンティノープルの陥落の後、オスマン帝国が他のヴェネツィアの海外領土を一連の戦争(英語版)で奪い取り始めるとますます増大した。16世紀半ばまでにクレタ島はエーゲ海に残された唯一のヴェネツィアの主要拠点となっており、1570年から1571年にかけてのキュプロス島の喪失(英語版)の後には東地中海全体における唯一の拠点となった。クレタ島はこれらの紛争とますます深く関わるようになり、オスマン帝国とヴェネツィアの最初の戦争(英語版)の最中の1471年には、オスマン艦隊(英語版)がクレタ島東部のシティア(英語版)周辺を略奪した。オスマン帝国とヴェネツィアの3度目の戦争(英語版)では、オスマン帝国はスルターンがクレタ島の大君主の地位(overlordship)を持つことを認め、毎年の貢納を支払うことを要求した。1538年6月、オスマン帝国の提督バルバロス・ハイレッディンはミュロポタモス(英語版)、アポコロナス(英語版)、そしてカネアにほど近いケラメイア(英語版)を占領したが成功せず、その後レシムノンとカンディアに向けて進軍した。ヴェネツィアは現地住民に恩赦と免税をアピールすることによってのみこの都市を維持することができた。とりわけカレルギス家(英語版)の兄弟、アントニオス(Antonios)とマシオス(Mathios)に、要塞を強化するための人員募集費用を提供させる際にはこの譲歩が必要であった。この努力にもかかわらず、オスマン帝国はフォデール(英語版)周辺の地域を荒廃させ、ミラベッロ、シティア、そしてパレカストロ(英語版)の砦を破壊した。セリノ(英語版)の住民が降伏してヴェネツィアの守備隊が捕縛されると、1539年にオスマン帝国の攻撃は再開された。イエラペトラの要塞もまた陥落したが、キサモス(英語版)におけるヴェネツィアの抵抗は成功した。キュプロス戦争中の1571年、クルチ・アリは容易にレシムノンを占領し、クレタ島を襲撃した。この結果、クレタ島に深刻な飢饉がもたらされた。幾人かの現地住民はヴェネツィアの失政に怒り、オスマン帝国と接触を図りさえした。しかしクレタ貴族のマッタイオス・カレルギス(Matthaios Kallergis)の仲介によって落ち着かせ、秩序を回復させることに成功した 。2年後の1573年、カネア周辺の地域が襲撃された。 オスマン帝国の脅威の出現は、ヴェネツィア共和国の経済的衰退と時期を同じくしており、このことがクレタ島の防衛力を有効に強化する能力を低下させていた。付け加えて、クレタ島内の内部対立と現地貴族の改革に対する抵抗が問題を深刻にした。コンスタンティノープルの陥落はクレタ人に深刻な動揺を与え、その余波によって一連の反ヴェネツィアの陰謀が発生した。最初に発生したのはシフィス・ヴラストス(英語版)によるレシムノンでの反乱の計画であり、これには最後のビザンツ皇帝による偽の手紙まで用意された。この陰謀は金銭と特権に転んだ司祭イオアンニス・リマス(Ioannis Limas)とアンドレアス・ニグロス(Andrea Nigro)によって裏切られ、ヴェネツィア当局に知らされた。計画に加わった39人が告発され、彼らの多くが司祭に属していた。1454年11月、これに関連して、ヴェネツィア当局は正教会の聖職者の叙聖式(ordination)を5年間禁止した。1460年に別の陰謀が密告され、それによってヴェネツィア人はクレタ島の現地人とギリシア本国からの難民を迫害し始めた。レシムノンのプロトパパス(英語版)(protopapas)、Petros Tzangaropoulosはこの陰謀の指導者の一人であった。革命的な動揺はこれで収まったにもかかわらず、ヴェネツィア当局は神経質であり続けた。1463年、ラシティ高原の住民は飢饉に対処するために穀物の栽培を許可されたが、目の前の危険が去った1471年にはすぐに禁止され、16世紀初頭までそのままであった。 1523年に初めて、ゲオルギオス・カンタノレオス(英語版)の率いる別のクレタ人の反乱の動きが開始された。重税の負荷とヴェネツィア政府の専横に苛立ち、約600人がケラメイア周辺で蜂起した。ヴェネツィア当局は当初、事態がより広範囲に飛び火することを恐れて、この反乱軍に立ち向かうことを躊躇した。しかし、1527年10月にはジェロニモ・コルネール(英語版)は1,500人の兵士とともに反乱軍へと向けて進軍した。この反乱は苛烈な暴力によって鎮圧され、反乱を起こした地域の全ての村落が破壊された。反乱指導者のうちの3人、ゲオルギオス・コルタトシス(Georgios Chortatsis)とアンドロニコス・コルタトシス(Andronikos Chortatsis)の兄弟とレオン・テオトコポウロス(Leon Theotokopoulos)は1528年に味方に売られて吊り下げられた。またカンタノレオス自身も1,000枚のhyperpyra金貨で味方に売られ、追放[訳語疑問点]された。全体では700人が殺害され、多くの家系がキュプロスのパフォス地方へ追放されたが、10年余り後にはその多くがクレタ島に帰還し、元の所有地を回収することが許可された。 1571年に勃発した新たな衝突は、ヴェネツィア人の総督マリノ・カヴァッリ(英語版)がスファキア(英語版)地方を征服するために動いた時に起きた。遠隔の山岳地帯であったこの地方は、ヴェネツィアの実効支配が及ばないまま残されていたが、この山岳地方から低地地方への襲撃と、スファキアの指導的氏族間の絶え間ない軋轢は、広い範囲に政情不安を引き起こしていた。スファキアへの全ての道を封鎖した後、カヴァッリはこの地域を破壊し始め、人口の大部分を殺害した。スフィキア人は最終的に屈服を余儀なくされ、ヴェネツィアへの忠誠を誓うためにスフィキア全土の代表団がカヴァッリの面前に並んだ。カヴァッリの後継者、ジャコポ・フォスカリーニ(英語版)はスフィキア地方を安定させるための対策を講じ、住民が自宅へ戻ることを許可したが、この地はすぐに再び混乱の温床となり、1608年には総督ニコラス・サグレド(英語版)がスフィキア地方への再侵攻を準備した。しかし彼の後継者によってこの計画は退けられ、結局個人的にスフィキア内を巡行することで秩序が回復された。
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