15世紀から17世紀にかけてのクレタ島とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 15世紀から17世紀にかけてのクレタ島の意味・解説 

15世紀から17世紀にかけてのクレタ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 17:31 UTC 版)

ヴェネツィア領クレタ」の記事における「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」の解説

クレタ島ヴェネツィア植民地の中ではもとより最も重要なものであったが、その重要性1453年コンスタンティノープルの陥落の後、オスマン帝国が他のヴェネツィア海外領土一連の戦争英語版)で奪い取り始めるとますます増大した16世紀半ばまでにクレタ島エーゲ海残され唯一のヴェネツィア主要拠点となっており、1570年から1571年にかけてのキュプロス島喪失英語版)の後には東地中海全体における唯一の拠点となったクレタ島はこれらの紛争とますます深く関わるようになり、オスマン帝国ヴェネツィア最初戦争英語版)の最中1471年には、オスマン艦隊英語版)がクレタ島東部のシティア(英語版周辺略奪したオスマン帝国ヴェネツィア3度目戦争英語版)では、オスマン帝国スルターンクレタ島大君主地位(overlordship)を持つことを認め毎年貢納支払うことを要求した1538年6月オスマン帝国提督バルバロス・ハイレッディンはミュロポタモス(英語版)、アポコロナス(英語版)、そしてカネアにほど近いケラメイア(英語版)を占領した成功せずその後レシムノンカンディア向けて進軍したヴェネツィア現地住民恩赦免税アピールすることによってのみこの都市維持することができた。とりわけカレルギス家(英語版)の兄弟、アントニオス(Antonios)とマシオス(Mathios)に、要塞強化するための人員募集費用提供させる際にはこの譲歩が必要であった。この努力にもかかわらずオスマン帝国はフォデール(英語版周辺地域荒廃させ、ミラベッロ、シティア、そしてパレカストロ(英語版)の砦を破壊した。セリノ(英語版)の住民降伏してヴェネツィア守備隊捕縛されると、1539年オスマン帝国の攻撃再開された。イエラペトラ要塞もまた陥落したが、キサモス(英語版)におけるヴェネツィア抵抗成功したキュプロス戦争中1571年クルチ・アリ容易にレシムノン占領しクレタ島襲撃した。この結果クレタ島深刻な飢饉もたらされた。幾人かの現地住民ヴェネツィア失政怒りオスマン帝国接触図りさえした。しかしクレタ貴族のマッタイオス・カレルギス(Matthaios Kallergis)の仲介によって落ち着かせ、秩序回復させることに成功した2年後1573年、カネア周辺地域襲撃された。 オスマン帝国脅威出現は、ヴェネツィア共和国経済的衰退時期同じくしており、このことがクレタ島防衛力有効に強化する能力低下させていた。付け加えてクレタ島内の内部対立現地貴族改革対す抵抗問題深刻にした。コンスタンティノープルの陥落クレタ人深刻な動揺与え、その余波によって一連のヴェネツィア陰謀発生した最初に発生したのはシフィス・ヴラストス(英語版)によるレシムノンでの反乱の計画であり、これには最後ビザンツ皇帝による偽の手紙まで用意された。この陰謀金銭特権転んだ司祭イオアンニス・リマス(Ioannis Limas)とアンドレアス・ニグロス(Andrea Nigro)によって裏切られヴェネツィア当局知らされた。計画加わった39人が告発され、彼らの多く司祭属していた。1454年11月、これに関連してヴェネツィア当局正教会聖職者の叙聖式(ordination)を5年禁止した1460年別の陰謀密告され、それによってヴェネツィア人クレタ島現地人ギリシア本国からの難民迫害し始めたレシムノンのプロトパパス(英語版)(protopapas)、Petros Tzangaropoulosはこの陰謀指導者一人であった革命的な動揺はこれで収まったにもかかわらずヴェネツィア当局神経質であり続けた1463年ラシティ高原住民飢饉対処するために穀物栽培許可されたが、目の前の危険が去った1471年にはすぐに禁止され16世紀初頭までそのままであった1523年初めて、ゲオルギオス・カンタノレオス(英語版)の率い別のクレタ人反乱動き開始された。重税負荷ヴェネツィア政府専横苛立ち、約600人がケラメイア周辺蜂起したヴェネツィア当局当初事態がより広範囲飛び火することを恐れて、この反乱軍立ち向かうことを躊躇した。しかし、1527年10月にはジェロニモ・コルネール(英語版)は1,500人の兵士とともに反乱軍へと向けて進軍した。この反乱苛烈暴力によって鎮圧され反乱起こした地域全ての村落破壊された。反乱指導者のうちの3人、ゲオルギオス・コルタトシス(Georgios Chortatsis)とアンドロニコス・コルタトシス(Andronikos Chortatsis)の兄弟とレオン・テオトコポウロス(Leon Theotokopoulos)は1528年味方売られ吊り下げられた。またカンタノレオス自身も1,000のhyperpyra金貨味方売られ追放[訳語疑問点]された。全体では700人が殺害され多く家系キュプロスパフォス地方追放されたが、10年余り後にはその多くクレタ島帰還し、元の所有地を回収することが許可された。 1571年勃発した新たな衝突は、ヴェネツィア人総督マリノ・カヴァッリ(英語版)がスファキア(英語版地方征服するために動いた時に起きた遠隔山岳地帯であったこの地方は、ヴェネツィア実効支配及ばないまま残されていたが、この山岳地方から低地地方への襲撃と、スファキアの指導的氏族間の絶え間ない軋轢は、広い範囲政情不安を引き起こしていた。スファキアへの全ての道を封鎖した後、カヴァッリはこの地域破壊し始め人口大部分殺害した。スフィキア人は最終的に屈服余儀なくされ、ヴェネツィアへの忠誠を誓うためにスフィキア全土代表団カヴァッリ面前並んだカヴァッリ後継者、ジャコポ・フォスカリーニ(英語版)はスフィキア地方安定させるための対策講じ住民自宅へ戻ることを許可したが、この地はすぐに再び混乱温床となり、1608年には総督ニコラス・サグレド(英語版)がスフィキア地方への再侵攻準備した。しかし彼の後継者によってこの計画退けられ結局個人的にスフィキア内を巡行することで秩序回復された。

※この「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」の解説は、「ヴェネツィア領クレタ」の解説の一部です。
「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」を含む「ヴェネツィア領クレタ」の記事については、「ヴェネツィア領クレタ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「15世紀から17世紀にかけてのクレタ島」の関連用語

15世紀から17世紀にかけてのクレタ島のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



15世紀から17世紀にかけてのクレタ島のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヴェネツィア領クレタ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS