15世紀から19世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:51 UTC 版)
詳細は「アルバニア・ヴェネタ」、「スクタリサンジャク」、および「スクタリ州」を参照 ヴェネツィア支配の後、1474年オスマン帝国の攻撃を受け1478年には町は再び全体がオスマンの軍勢に包囲された。メフメト2世は個人的にシュコドラの町を包囲に置いた。10門の大砲が据えられ、380 kgの砲弾が要塞に砲撃されたが町は抵抗を続けた。メフメトは町を去ったが、彼の指揮官たちは町の包囲を続けた。オスマンは冬に1つの城を攻略し、その後近隣の城を攻略した。飢饉と度重なる砲撃により守備を弱めていき、頑強な抵抗者たちすでに失望していた。自然の防御である丘の上にある城への猛攻の試みはかなりの死傷者がもたらされた。戦闘の停止は両者にとり多くの生命を救い、名誉を守る選択肢となった。1月25日にヴェネツィアとオスマン帝国両者の合意により包囲は終結し、市民は無傷で立ち去ることが容認されオスマンは破壊された町を占領した。 オスマン支配後、多くの人口が流出した。17世紀になるとスクタリサンジャクの中心として繁栄し始め、アルバニア北部の経済的な中心となり手工業者は織物や絹、武器、銀細工などを作っていた。2階建ての石造りの住居を含め、バザールやクリク川に架かる中央の橋 (Ura e Mesit) などが造られた。18世紀、シュコドラはパシャルクの中心となりブシャティ家の支配下になり1757-1831年までその支配下であった。 シュコドラは19世紀後半には重要な交易の中心となりシュコドラ州の中心でもあった。バルカン半島全体の商業の中心でもあり、3,500を超える商店があり皮革、タバコ、銃器等当時の主要な商品がシュコドラでは流通していた。取引仲裁、郵便局など商業に特化した運営監理が設立された。1718年以来、外国の領事館がシュコドラには開設された。オボートやウルツィニはシュコドラの商港となり、後にシュングジンがそうであった。イエズス会神学校やフランシスコ会のコミュニティが19世紀に開かれている。シュコドラはアルバニア人解放運動のプリズレン連盟においては重要な役割を担っており、シュコドラの人々はアルバニアの領土を守るため戦いに参加していた。19世紀、シュコドラは文化的な中心としても知られていた。ブシャティ図書館は1840年代に建築され、プリズレン連盟のシュコドラ支部の中心となった。多くの本がシュコドラのカトリック宣教師の図書館に集められている。この時期、多くのスポーツや文学の団体も設立された。また、最初のアルバニア語の新聞や書籍がシュコドラで出版されている。1867年、シュコドラサンジャクはスコピエサンジャクと併合されスクタリ州(Scutari Vilayet)となった。
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