建築賞
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フランスの建築においてローマ大賞の制度は、旧制度下の王立建築アカデミーの時代にすでにある程度は確立され、1720年から建築部門の学生を毎年1名ずつローマに派遣する原則を出来上がらせた。ただし当初はアカデミーが審査する大賞の順位より、国王の下に置かれた王室建設総監のほうが決定力を持ち、そのためときに実際の大賞受賞者以外の人物がローマに留学していたこともあった。その後、建築アカデミーの権威が確立し、それとともに、ローマ大賞は一種の絶対的価値を持つものと一般に理解されてくる。 こうした建築学徒のローマへの留学制度はフランスのほかに、イギリスのソーン賞など同様の制度は各国で設置されている。 エコール・デ・ボザールが設立されてからの、1819年から1968年まで続いた旧ボザールの時代でも、毎年1回催されるローマ大賞の設計競技は、最大の年間行事ともいえる規模と化していた。ポザール自体は当然美術アカデミーからは独立した教育機関の形態を保っていたが、ローマ大賞の審査だけは、アカデミーが行っていた。他に開催される設計競技は、ポザールの建築論教授が課題を決め審査の決定権を持っているが、ローマ大賞だけは全てアカデミーのプログラムに沿ってなされていた。 大賞のための設計競技は基本的に3段階に分かれている。 毎年3月に応募者全てに開かれている最初の競技は12時間以内に仕上げるエスキスで、まず応募者達はポザール校舎内のアトリエ製図棟に入りとりかかる。中で応募者同士が相談するのは許されていたが、中途での外出は認められなかったという。製図棟を去る時は、仕上げたエスキスを守衛に手渡し、その後審査に回される。 第一次競技の主旨は、ファサードデザインを中心とした表現能力をみることで、全応募者の中からまず30人が選り分けられる。 第二次設計競技はこの30人を対象に、第一次競技から1週間以内に行われ、ここで建物全体の構成技法と表現を試され、製図棟の中で24時間以内にエスキスを仕上げる。この第二次審査によってさらに8人の最終候補者を選び(1864年からは10人)、その後本格的な大賞設計競技が始まるのである。第二次審査の結果が発表された瞬間から、最終競技が開始されることになり、提出期限7月までの約4か月最終選考にこのった先鋭たちは最終目標に向かってひたすら走り続けるのであるがここでもエスキスの段階があり、候補者はまず、通常の設計競技と同様、製図棟で作業を行わねばならない。課題はその時点で渡されるので、この12時間が全体の構想を決定するが、これは最終提出図面はこのエスキスで示した構想に合致していなければならないためで、エスキスを作成した候補者達はその後の4か月、各自所属するアトリエで必死の作業を行うことになる。ローマ大賞受賞者を輩出するのはアトリエにとっても名誉でもあり、またそのアトリエの格を決定する最大の基準でもあったので、あるアトリエで誰かが最終候補まで残ることがあれば大変な騒ぎであったという。締切り間際はアトリエのメンバー総がかりで手伝うこととなり、大図面が次から次に描かれていったという。現に幅7mの立面図も残っていて、コピーなど全くない時代この作業は桁外れた労力を必要とした。 一度ローマ大賞を得れば、基本的には将来公共部門の大建築を委託され、またボザールのアトリエ・パトロンの道が開け、当然アカデミー会員に選ばれる可能性もある。そのため、学生達はこの大賞獲得のために執念を燃やした。1826年に受賞するレオン・ヴォードワイエは5年間、この設計競技を続け、トニー・ガルニエは6年、ジャン=ルイ・パスカルは7年。エドモン=ジャン・ポーランはじつに8年間も、設計競技に挑んだといわれる。大賞受賞者の年齢もしたがってかなり高く、ほぼ30歳に近かった。規定により大賞応募資格は15歳から30歳までとなっており、この年齢を25歳にまで引き下げた1863年の大改革は、学生の反対を呼んだ。なお逆に初期のアンリ・ラブルースト、ルイ・デュグ達は23歳で大賞に輝き、ネオ・グレコの運動を起こし、またシャルル・ガルニエも23歳で大賞受賞で、周囲の人々の期待を一身に受けたという。 ローマ大賞を獲得すると、ローマのフランス・アカデミー(Académie de France à Rome、通称:ヴィラ・メディチ) に派遣される。王立アカデミー時代は3年の留学期間だったが、エコール・デ・ポザール設立とともに5年に引き上げられた。1863年の改革では、いったん4年間となったが、のちに5年間となる。フランス・アカデミーは、第一次、第二次大戦の時期を除いて毎年留学生を受け入れ、ローマ大賞のなくなった今日でも存続している。近代的な交通機関の整備されていなかった19世紀半ばまでは、ローマに行けるということ自体、きわめて価値あることであった。むろん、19世紀末になって、イタリア旅行がいともたやすくできるようになってきても、5年間の日々を国の費用で古典建築研究に費すことのできる留学生の立場は代々人々を圧倒的に凌いでいた。 1846年、ギリシアのアテネにもアカデミーの出先としてエコール・フランセーズ・ダテヌ(École française d'Athènes)が創立され、それ以降、ローマからアテネまで足をのばす留学生も増えて、特にギリシア本土の建築、中東の建築を見て回るにはこのエコール・フランセーズ・ダテヌは良き中継点だったようである。 ローマ留学生は、美術アカデミーから年間の課題を課せられ、毎年1回パリにそれを送らねばならないことになっている。内容としては古典建築の実測復原研究とされていたが、テーマ自体はみずから選ぶ。留学生からローマから送られた図面類は毎年、ボザールのメルポメーヌの間で展示、これも学校の一大行事であったが、1829年のアンリ・ラブルーストのようにパエストゥムのギリシア神殿の実測研究を送ったり、あるいは、1909年のトニー・ガルニエが古典建築と関係のない「工業都市」の図面を送りつけたりした時など、展覧会は大騒ぎとなったと伝えられている。
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日本建築大賞・日本建築家協会賞 日本建築家協会の本賞にあたる。年間を通じて特に際立った成果をあげた作品を表彰する。 JIA新人賞 作品を通じて新進の建築家を表彰する。 JIA 環境建築賞 環境に関連するテーマを通じて、社会資本としての建築を創造することができたものを評価する。 JIA 25年賞 25年以上に亘り「長く地域の環境に貢献し、風雪に耐えて美しく維持され、社会に対して建築の意義を語りかけて来た建築物」を表彰する。
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