ジロラモ・サヴォナローラとは? わかりやすく解説

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ジロラモ・サヴォナローラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 14:35 UTC 版)

フラ・バルトロメオによる『ジローラモ・サヴォナローラの肖像』(1498年頃、サン・マルコ美術館

ジローラモ・サヴォナローラ (Girolamo Savonarola, 1452年9月21日 - 1498年5月23日[1]) は、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士フィレンツェ神権政治を行った。宗教改革の先駆と評価されることもある。

生涯

サヴォナローラは9月21日にフェラーラの中流階級に生まれた[2]。彼の祖父は著名な内科医博学者で、叔父のミケーレ・サヴォナローラは占星術師として知られる人物であった[3]。父の意向で祖父の跡を継ぐためにフェラーラ大学英語版に入学し、芸術学の学位を取得して医学校に進学する準備をする。しかしファエンツァで聞いた説教の影響で、父の家を捨てて22歳の時にボローニャにてドミニコ会に入信し、修道士となる[4]1482年フィレンツェサン・マルコ修道院に転任し[4]、後に修道院長となる。説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。サヴォナローラが広く民衆の支持を集めることができた背景として、その著作がフィレンツェの印刷業者たちに次々と印刷されていったという印刷技術の影響も指摘されている[5]。信奉者は次第に増え、メディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチも、死の間際(1492年)にサヴォナローラを招いて罪を告白したと言われている(捏造ともいわれる)。1494年、フランス軍が侵攻してくると、それを予言していたということで信望が高まる。メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となって政治への影響力を強める。これ以降、神権政治が行われることになった。

次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門される。贅沢品として工芸品や美術品をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ[6]、市民生活は殺伐としたものになった。画家サンドロ・ボッティチェッリも彼の影響を受けて華美な絵を書くのを止めてしまったほどである。だがサヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。これは4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが[7]、4月8日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受けた。教皇の意による裁判の結果、弟子のドメニコとシルヴェストロと共に絞首刑ののち火刑に処され殉教した。

ステファノ・ウッシ『サヴォナローラの焚刑』
フィレンツェシニョリーア広場にあるジロラモ・サヴォナローラが処刑された場所を記念する銘板

彼の最後の言葉は「わが主は、わがすべての罪のために死にたもうた。私はこの貧しき生命を喜んで彼に献ぐべきではないだろうか」であった[8]

遺骨はアルノ川に捨てられた。

のちに、フィレンツェでは共和制のシンボルとしてミケランジェロの代表作、ダビデ像が造られる(1504年)が、1512年にはスペイン軍の軍事的支援を受けたメディチ家がフィレンツェに復帰することになる。こうした社会の混乱でフィレンツェ社会の活力は失われ、ルネサンスは終息に向かっていった。

評価

ヨーロッパの先進地であり、ルネサンスの中心地であったフィレンツェでサヴォナローラが熱狂的に支持された理由として、

  1. シャルル8世のイタリア侵入 (1494年) を預言して的中したとフィレンツェ市民に信じられたこと。
  2. シャルル8世がメディチ家追放に大きな役割を演じ、さらにサヴォナローラの要請によりフランス軍がフィレンツェから撤退してからは、サヴォナローラの背後にフランス国王の支持があることが感じられ、フィレンツェの悲願であるピサ征服のためにフランス国王の尽力を得る期待が市民の一部にはあった。
  3. フランチェスコ・ヴァローリのような平民派と協調し、ヴァローリもまた自派を強化するために、サヴォナローラを積極的に利用した。

などが、ランケの『サヴォナローラと十五世紀末フィレンツェ共和制』の中であげられている。政治から距離をおこうとしたが巻きこまれ、その中で反教皇・ヨーロッパ諸国の君主による一般宗教会議の招集という構想が芽生えたともランケは述べている。

遺産

彼はウィクリフヤン・フスとともに宗教改革の先駆者と見なされる[9]。宗教改革者ルターは、「その時、反キリスト[10]は、この偉大な人物の記憶が消え去り、また呪われることを願った。しかしながら、見よ、彼は生きており、その記憶は祝福されている」と言った[11]

脚注

  1. ^ Girolamo Savonarola Italian preacher Encyclopædia Britannica
  2. ^ 高階 1996, p. 51.
  3. ^ 高階 1996, pp. 51–52.
  4. ^ a b 高階 1996, p. 52.
  5. ^ アンドルー・ペティグリー『印刷という革命――ルネサンスの本と日常生活――』(白水社、2015年)95頁。ペティグリーはこの点において、サヴォナローラをマルティン・ルターの宗教改革を先取りする存在であると位置づけている。
  6. ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、54頁。ISBN 978-4-08-720815-3 
  7. ^ 『ルネサンス・フィレンツェ統治論―説教と論文』
  8. ^ 尾形守『リバイバルの源流を辿る』
  9. ^ ケアンズ『基督教全史』
  10. ^ この場合はローマ法王を指している
  11. ^ 前出『リバイバルの源流を辿る』

著書

  • 説教(1495年) 神愛兄弟会会則(1497年)沢田和夫訳.宗教改革著作集 第13巻 (カトリック改革).教文館,1994.4.
  • 『ルネサンス・フィレンツェ統治論―説教と論文』須藤祐孝編訳 無限社,1998年
  • 『クリスト信徒の質素な生き方』
  • 『天啓大要』
  • 『〈出家〉をめぐる詩と手紙―ルネサンス・イタリアにおける〈政治的〉修道士の胎動―』須藤祐孝編訳 フィリッポ・ミニーニ(協力) 無限社,2010年

参考文献

  • 『サヴォナローラ略伝』 田中達訳.警醒社,1893
  • 『宗教界の三偉人』 加藤直士 警醒社,1905
  • 『サボナローラ』 青芳勝久 日本基督教興文協会,1922
  • 『サヴォナローラ』(波多野茂弥訳) ロマン・ロラン全集. 第12 (戯曲集)みすず書房,1962.
  • 『サヴォナローラ イタリア・ルネサンスの政治と宗教』 エンツォ・グアラッツィ 秋本典子訳.中央公論社,1987.4.
  • 「ルネサンス・フィレンツェ,イタリア,ヨーロッパ サヴォナローラ,マキャヴェッリの時代,生涯 読む年表・年譜」須藤祐孝,油木兵衛編著.無限社,2002.3.
  • 高階秀爾『フィレンツェ: 初期ルネサンス美術の運命』 118巻(35版)、中央公論社〈中公新書〉、1996年10月30日。ISBN 9784121001184NCID BN01898705 
  • アンドルー・ペティグリー『印刷という革命――ルネサンスの本と日常生活――』白水社、2015年。

関連項目

先代
ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ
フィレンツェの支配者
1494年 - 1498年
次代
ピエロ・ソデリーニ

ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 10:04 UTC 版)

アサシン クリード II」の記事における「ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)」の解説

黒衣を身に纏った修道士。エツィオが深手負った際に取り落とし秘宝エデン果実」を手にした事で野望に目が眩み、メディチ家腐敗荒廃しかけていたフィレンツェ現れ人心掌握行い実質的な支配者として君臨する

※この「ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)」の解説は、「アサシン クリード II」の解説の一部です。
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