初期ヨーロッパ人の探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:48 UTC 版)
「オレゴン州の歴史」の記事における「初期ヨーロッパ人の探検」の解説
スペイン人の探検家たちが1565年には既に太平洋岸を探検する道筋を見つけた。フィリピンから黒潮に乗って太平洋北部を周回するようなコースを取って艦船を派遣した。これらの船は250年間というもの、通常はカリフォルニアのメンドシノ岬に到着するまで上陸しなかったが、何隻かの船は現在のオレゴンに上陸するか漂着した。ネハレム・インディアンの説話では異邦人と多くの交易品や蓋のある銀の花瓶のような物の発見を伝えており、1707年の聖フランシスコ・ザビエル号の漂着に結びつく可能性もある。 フアン・ペレスは1774年に太平洋岸北西部を北のブリティッシュ・コロンビアあたりまで探検した。オレゴン海岸のヤキナヘッドを最初に目にしたヨーロッパ人である。1775年、フアン・フランシスコ・デ・ラ・ボデガ・イ・クアドラとブルーノ・デ・エセタに率いられた別のスペイン人遠征隊が海岸を探検した。ヘクタは南に戻る時にコロンビア川河口を発見したが、入ることはできなかった。 1778年にジェームズ・クック船長が北西航路を探してオレゴン海岸を探検した。アメリカ人の船長ロバート・グレイが1792年にコロンビア川に入り、その後間もなくイギリス人船長ジョージ・バンクーバーの指揮する船が続いた。ルイス・クラーク探検隊はルイジアナ買収で手に入れた土地を探検するためにその遠征隊を率いてこの地域を通過した。彼等はコロンビア川の河口近くで冬の宿営地としてクラトソップ砦を築いた。ルイスとクラークによる探検(1805年-1806年)およびイギリスのデイビッド・トンプソンの探検(1811年)によって、この地域に毛皮採取用の動物が豊富にいることが公表された。 先住民族は一般的に交易の機会が増えることでヨーロッパ人の到着を歓迎した。しかし、海外から入った疫病のために地域の人口は激減することになった。後にアメリカ人の西部の自然資源、恐らく最も顕著な物はコロンビア川沿いの資源を自由にしようという動機が先住民の利益と衝突することになった。多くの種族は合衆国政府から数百万ドルという和解金を受け入れることと引き換えに伝統的な漁場を諦め、その故郷からは遠いことの多かった居留地に移動した。 近年、カジノを作ることで、概して貧乏だった種族にもいくらかの収入が入るようになった。テッド・クロンゴスキの行政指導により、ウォーム・スプリングス・インディアン連邦はコロンビア川渓谷で居留地外のカジノを造る権利を交渉し勝ち取った。
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