初期ヨーロッパ人とアメリカ人の探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:46 UTC 版)
「ワシントン州の歴史」の記事における「初期ヨーロッパ人とアメリカ人の探検」の解説
ワシントンの海岸に初めてヨーロッパ人が上陸した記録は、1774年のスペイン人フアン・ペレスによるものである。1年後、スペイン人船長ブルーノ・デ・エセタがソノラ号と2隻の船隊の1隻サンチァゴ号に乗って、キノールト川河口近くに上陸し、北のロシア領までのその海岸地域を領有権主張した。 1778年、イギリス人探検家ジェームズ・クック船長がファンデフカ海峡の入り口でフラッタリー岬を視認した。しかし海峡を探検したのは1789年のチャールズ・W・バークリー船長が最初だった。スペインとイギリスの間に結ばれた1790年のヌートカ協定によってスペインの独占権を終わらせ、北西部海岸は他の国からの探検家や交易業者に解放され、その中でも著名なのがイギリス、ロシアそして新生間もないアメリカ合衆国だった。その後も海峡の探検は1790年のスペイン人探検家マニュエル・クインパー、1791年の同じくスペイン人のフランシスコ・デ・エリザ、および1792年のイギリス人船長ジョージ・バンクーバーによって行われた。バンクーバーとその探検隊は1792年から1794年にかけてワシントン海岸の地図を作成した。 ロバート・グレイ船長(グレイズハーバー郡の名は彼に因むもの)が1792年にコロンビア川河口を発見し、その川を乗船コロンビア号に因んで名付け、後にラッコ生皮の交易を始めた。トーマス・ジェファーソン大統領の指示に基づくルイス・クラーク探検隊は1805年10月10日に東部から地域内に入った。メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークは大西洋岸北西部のインディアン種族が遠征中に出会った種族とは違っていることに驚かされ、海岸種族とプラトー種族の中で女性の地位が高いことを特に記した。ルイスは、女性や高齢者が男性と平等であることは平等に分配された経済的役割と結びついているという仮説を立てたが、ルイスもクラークも先住民の女性と意味ある接触をした訳ではなく、それは彼等の旅行日誌に反映されている。ルイス・クラーク探検隊から5年後にカナダ人探検家デイビッド・トンプソンはワシントン東部に交易基地を設立し、最初のアメリカ人開拓地は1811年に太平洋毛皮会社のためにデイビッド・スチュアートがオカナガンに設立したものだった。初期ヨーロッパ人毛皮交易業者とインディアン女性との間の性的交渉の結果、メティ(混血の人々)の人口が増えて行った。1830年に開拓が許され白人女性が地域内に入ってくるまで、メティの女性が交易業者の妻として引っ張りだこになった。
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