ワシントン東部
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「ワシントン州の歴史」の記事における「ワシントン東部」の解説
ワシントン東部の開拓地は大半が農業でありワラワラ渓谷の伝道所周辺に集中していた。伝道所ではインディアンの「文明化」を試み、しばしば先住民の習慣を無視したり誤解したりしていた。伝道師のマーカス・ホィットマンやナーシサ・ホィットマンが1847年に民族的緊張関係が高まった時にその使命から離れることを拒み、14人の伝道師がカイユース族やウマティラ族インディアンに殺された。ワラワラにおけるホィットマン虐殺の解説には、病気の蔓延、宗教と生活様式双方に対する厳しい転換の試みに対する不満、および伝道師、特にオレゴン準州では最初のアメリカ人女性だったナーシサ・ホィットマンによって示された先住インディアンに対する侮蔑が挙げられていた。多くの白人同様、特に福音主義者のナーシサ・ホィットマンは伝道生活の厳しい現実に対する備えが無かった。 この出来事がインディアンに対するカイユース戦争を引き起こし、ヤキマ戦争が続いて、共に1858年まで続いた。 1847年の暫定オレゴン準州議会は直ちに志願兵中隊を立ち上げ、必要ならばカイユース族に対する戦争に向かい、また民兵指導者の何人かには不満だったが休戦協定を結ぶ使者も送った。後にアメリカ陸軍が民兵隊の支援に派遣された。これら民兵隊は好戦的であり、友好的なインディアンも敵対的なインディアンも挑発した。1850年、5人のカイユース族が1847年のホィットマン殺人で有罪とされ、絞首刑にされた。散発的な流血沙汰は1855年まで続き、カイユース族はその多くが殺され、打ち破られ、その土地を奪われ、オレゴン北東部のウマティラ・インディアン居留地に移された。 インディアンと「アメリカ人」開拓者の間の土地領有に関する紛争は、1855年のワラワラ協議会での「条約」によってカイユース族だけでなくワラワラ族やウマティラ族までもウマティラ・インディアン居留地に強制移住させることになった。その他14種族はワシントン北東部のヤカマ・インディアン居留地に強制移住させられた。またネズ・パース族はワシントン、オレゴンおよびアイダホの境界地域の居留地に移住させられた。この同じ年に新しく設立されたヤカマ・インディアン居留地で金が発見され白人鉱夫がこれらの土地に侵入した。インディアン達は最初にヤマカ族、続いてワラワラ族やカイユース族も加わり、同盟してアメリカ人と戦い、いわゆるヤキマ戦争となった。アメリカ陸軍が部隊を派遣し、多くの襲撃や戦闘が起こった。1858年、アメリカ人はフォーレイクスの戦いでインディアンを決定的に破った。新しく強制された「条約」でインディアン達は再び居留地に閉じ込められた。
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