ワシントン政権、1789年–1797年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 05:29 UTC 版)
「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「ワシントン政権、1789年–1797年」の解説
アメリカ合衆国の初めは政党が無かった。間もなく財務長官のアレクサンダー・ハミルトンや国務長官のトーマス・ジェファーソンのような傑出した人物の周りに党派が生まれた。ジェファーソンは強力な連邦政府というハミルトンの遠大な構想に反対した。ジェファーソンは特にハミルトンが憲法を柔軟に解釈し、国定銀行までその中に含めたことに反対した。ワシントン大統領は1792年に対抗馬も無く再選された。 ハミルトンはおよそ1792年から1793年に連邦党として出現した支持者の全国的なネットワークを造り上げた。これに対応してジェファーソンとマディソンは1792年から1793年に民主共和党として出現した連邦議会と各州における共和派支持者のネットワークを造り上げた。1792年の選挙は政党を基盤にする形に似たもので争われた最初の機会になった。大半の州では、連邦議会の選挙はある感覚で認識されており、ジェファーソンの戦略家ジョン・ベックリーは「財務省と共和派の利益の間での闘争」と位置づけた。ニューヨーク州では、知事選挙がこの位置づけで争われた。候補者はハミルトン派のジョン・ジェイと現職のジョージ・クリントンであり、クリントンはジェファーソンと共和党に与していた。 1793年、最初の民主共和協会が結成された。この協会はルイ16世を処刑したばかりのフランス革命を支持し、概してジェファーソンの側を支持した。「民主」という言葉はこの協会のために市民ジュネが提案したものであり、連邦党はジェファーソンの友人達を「民主主義者」と冷笑した。ワシントンがこの協会を非共和者だと非難した後、協会はほとんど消えていった。 1793年、ヨーロッパでイギリスとフランスがそれぞれの同盟国を巻き込んだ戦争が持ち上がった。ジェファーソン一派はフランスに味方し、1778年に結んだ仏米同盟条約がこの時も有効であると指摘した。ワシントンのその全閣僚一致の内閣(ジェファーソンも入っていた)は、この条約はアメリカ合衆国が戦争に参入するよう拘束していないと判断した。ワシントンはその代わりに中立を宣言した。 1794年にイギリスとの戦争の可能性が出てきたとき、ワシントンはイギリスとの交渉にジョン・ジェイを派遣した。このジェイ条約は1794年遅くに調印され、1795年に批准された。これで戦争の可能性を回避し、アメリカ合衆国とイギリスの間に生じていた問題の全てではないが多くを解決させた。ジェファーソン一派は、この条約が貴族制的イギリスとその連邦主義同盟者にあまりに多くの影響を与えすぎることで共和制を弱める恐れがあると言って、激しく条約を非難した。歴史家のウィリアム・ニスベット・チェンバーズに拠れば、1794年から1796年にかけて行われたジェイ条約に関する激しい議論のために、政治を全国的なものにし、連邦議会内の党派を全国的な党にしたと言っている。ジェファーソン一派はこの条約と戦うために、首都の指導者と州、郡、町の指導者、活動家および大衆追随者の間の活動に協調性を造り上げた。 1796年アメリカ合衆国大統領選挙でジェファーソンはジョン・アダムズに挑戦し、落選した。このときの選挙人は大半が州議会で選ばれており、その多くは全国政党を基準に選ばれたわけではなかった。
※この「ワシントン政権、1789年–1797年」の解説は、「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の解説の一部です。
「ワシントン政権、1789年–1797年」を含む「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事については、「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の概要を参照ください。
- ワシントン政権、1789年–1797年のページへのリンク