ワシントン市の他の資産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 03:54 UTC 版)
「ワシントン焼き討ち」の記事における「ワシントン市の他の資産」の解説
ホワイトハウスを破壊した次の日、コックバーン海軍中将はワシントン市の新聞「ナショナル・インテリゲンサー」の建物を燃やすつもりでその中に入った。しかし、そこを燃やせば近くの家まで延焼すると恐れた数人の女性が、そうしないよう説得した。コックバーンは新聞社の記者が自分のことを否定的に書き、「悪漢」と決めつけていたので、新聞社を破壊したいと思った。コックバーンはその建物を燃やす代わりに、レンガの1片まで破壊し尽くすよう兵士に命じた。「やつらが私の名前をいたずらすることのないよう」活字の「C」をすべて破壊させた。 イギリス軍はアメリカ合衆国財務省など公的な建物も燃やした。初代アメリカ特許庁ビルは、アメリカ合衆国議会議事堂の建築家であり、当時は特許の監督官だったウィリアム・ソーントンの努力で救われた。ソーントンはそれを保存するためにイギリス軍の協力を獲得できた。この恐ろしい攻撃の煙が晴れたとき、ワシントンで無傷のまま残っていた政府の建物は特許庁だけだった。 アメリカ人は、トーマス・ジェファーソンが設立した歴史あるワシントン海軍工廠から、物資や弾薬を取られないように、自らその大半を燃やしていた。さらに完成が近かった大砲44門のフリゲート艦USSコロンビアや、大砲18門のUSSアーガスも燃やしていた。海軍工廠のラトローブ・ゲート、兵舎AとBは破壊を免れた。アメリカ海兵隊の兵舎と指揮官宿舎も破壊を免れた。海兵隊の伝説ではブラーデンスバーグの戦いでの海兵隊の行動に対する、イギリス軍の尊敬の念による破壊免除だったとされている。 8月25日午後、ロス少将はグリーンリーフのポイントにある砦を確保するために200名の兵士を派遣した。この砦はマクネア砦と呼ばれ既にアメリカ兵が破壊していたが、150樽の火薬が残っていた。イギリス兵がそれらの樽を井戸に落として破壊しようとしている時に、火薬が引火した。この爆発で30名程が死に、他にも多くが重傷を負った。 攻撃が始まってから1日経っていないときに、突然の雷雨が火事の大半を消した。竜巻も1つ起こって首都の中心を通過し、大砲2門を持ち上げ、数ヤード向こうに落としたので、イギリス兵やアメリカ市民を殺した。この嵐によってイギリス兵をその船に戻らせたが、船の多くも損傷を受けていた。ワシントンの占領は僅か26時間のことだった。イギリス海軍はこの攻撃の間に、1名が戦死し、6名が負傷したと報告したが、その戦死者と負傷者3名は植民地海兵隊の者だった。 ロスの部隊がワシントンを去っている間に、別のイギリス軍部隊がポトマック川の南岸にあるバージニア州アレクサンドリアを占領した。アレクサンドリア市長はイギリス軍と取引して、町を燃やされないように計らった。 マディソン大統領は9月1日にワシントンに戻り、その日に市民に対してコロンビア特別区を守るよう宣言を発した。アメリカ合衆国議会が戻って、9月19日に特別会期を招集した。議事堂やその他政府の建物が破壊されていたので、最初は郵便特許庁ビルで集まることになった。
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