1470年の都市権喪失
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「シュリースハイム」の記事における「1470年の都市権喪失」の解説
1410年に皇帝ループレヒトが亡くなると、プファルツ選帝侯領は4人の息子に分割された。シュリースハイムは、初め一番下の息子オットーのものとなったが、1448年にジンメルンとツヴァイブリュッケンを治める兄シュテファンと領土の交換が行われた。1459年にこの家系はさらに分岐し、シュリースハイムはジンメルンの家系に属した。そして、この同じ年に騎士のハンス・フォン・ジッキンゲンに4,000グルデンで質入れされた。フェルデンツ=ツヴァイブリュッケン宮中伯ルートヴィヒは、1468年に再びシュリースハイムを手放した。 選帝侯フリードリヒ1世とルートヴィヒ・フォン・フェルデンツ=ツヴァイブリュッケンの間で戦われたヴァイセンブルガー・フェーデでは、1470年5月6日にシュリースハイムとシュターレンブルク城の攻城戦が始まった。1470年5月13日の日曜日に最初に城が、次いで街が攻撃を受けた。勝者は、400グルデンの賠償金を要求し、市民は苦労してこれを集めた。さらに街のすべてのワインの備蓄を引き渡すことで、街の焼失は免れた。加えて、防衛施設が取り壊された。塔は破壊され、壁は倒され、堀は埋められた。シュリースハイムの重罪刑事法廷も廃止された。結局、都市権の3つの前提条件のうち、市場の開催権だけは残されたが、それも後に禁止された。これを承けてシュリースハイムはエプフェルバッハ・ツェントの管轄下に置かれ、それ以後この管区はシュリースハイム・ツェントと呼ばれるようになった。シュリースハイムは、1579年に市場開催権を再度獲得し、これに基づいてマタイゼマルクト(マタイ市)が開催された。
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