オスマン・オーストリア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:25 UTC 版)
「プリイェドル」の記事における「オスマン・オーストリア時代」の解説
1878年までボスニアはオスマン帝国の支配下にあった。約200年前、この地域では、数多くの要塞が築かれオーストリアから絶えず国境を守っていた。大トルコ戦争期にオスマンが敗北を喫すと国境はオーストリア側が恩恵を受ける東側に移動する。プリイェドルが最初に言及されたのは1693年から1696年にかけて起こった戦いで、オーストリア側領域の司令官によりラテン語で書かれた要塞の居住地が焼けたことに関する報告書で、パランカ・プラエドル“Palanka Praedor”と言及されている。パランカ“Palanka”はサナ川に人工的に造られた島に築かれた木製の要塞を示している。それはあまりはっきりとしていないが、プリイェドルの地名はそこから得たものとされるが、現在は2つの説がある。一つはサナ川の浸透によってこの地域一帯が洪水になったことに関連しセルビア・クロアチア語等で浸透を意味する“prodor”と、二つ目に考えられているのは人と馬の間で競走が行われたことから来ている説である。馬は一般的に“Doro”として知られ、競走では人が勝ち馬の前にゴールに達したことから、前を意味する“Prije”と合わせて馬の前を意味する“Prije Dore”となったとも言われている。18世紀中頃、新たに石で築かれた要塞が現れ3つの塔と大砲からの2つの発射口が設けられていた。1745年のイスタンブールからの情報の公文書には、2つの町に新たに築かれたパランカ・プリドルスカ・アダ (Palanka Pridorska Ada) に渡る防護を指示している。これは、最初にサナ川に面した要塞に関して言及したもので町はその後開発された。
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