オスマンの平和か、それともトルコの圧政か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「オスマンの平和か、それともトルコの圧政か」の解説
近代のギリシャにおいてオスマン帝国時代は「トルコの圧政」の時代であったともっぱら記述されていた。そして近代西欧においてもこれに同調する傾向があった。しかし、オスマン帝国史、バルカン史、近代ギリシャ史の研究が進むことでこれまで「トルコの圧政」とされていたのが、実はイスラーム教という枠組みの中のムスリムと非ムスリムという「不平等な」形ではあるが、弾圧や改宗が強制的に進められたわけではなく、「共存」もしくは「許容」の原則のもと、固有の宗教、法律、生活環境の保持が認められていたということが明らかになった。 この「不平等な」形の「共存」、「許容」は「オスマンの平和」といわれるが、これが完全な平和、共存を与えたシステムではなく、限定的なものであった。つまり、この「共存」はあくまでもイスラーム教という枠組みの中でムスリムが上位に立った上で非ムスリムに対して「許容」するものであった。 しかし、オスマン帝国と西欧キリスト教世界との戦いにギリシャ人らは揺れ動いた。特に17世紀後半以降、ヴェネツィアとオスマン帝国によるクレタ島やペロポネソス半島をめぐる戦いにおいてはギリシャの人々が新たに西欧へ難民として避難した例もあれば、一方でヴェネツィアの占領よりもオスマン帝国による支配を喜ぶ例もあった。 オスマン帝国支配下のギリシャ及びギリシャ人らは「トルコの圧政」に苦しんだとは言えないが、また、それは逆に「オスマンの平和」が実現していたともできない。実際、16世紀以降、ギリシャに住むギリシャ語を母語とする正教徒らはオスマン帝国の支配に何らかの問題が生じると蜂起を起こすという出来事が見られた。これらの蜂起は独立戦争が発生するまでほとんどが鎮圧されたが、トルコ系ムスリムらの支配が薄いペロポネソス半島で蜂起が行われたことはギリシャ及び、ギリシャの人々に対するオスマン帝国の支配がけっして「オスマンの平和」でなかったことを表している。
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