オスマンのパリ改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 07:17 UTC 版)
第二帝政期にはセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによって大規模なパリ改造が行なわれた。このときエトワール凱旋門の周囲にエトワール広場(現シャルル・ド・ゴール広場)が設けられ、広場を中心にシャンゼリゼを始め12本の道路が放射状に設けられた。当初設計を担当したのはイトルフだが、オスマンはイトルフと対立して設計に介入した。 パリ改造ではテュイルリー、ルーヴルの北を通り歴史軸とほぼ平行に走るリヴォリ通りが東へ延長され、東西の主要道路として位置付けられた。ルーヴル宮殿の東ではルーヴルの中心軸に正対する形で鐘楼が建てられたが、皇帝ナポレオン3世はこの鐘楼がテュイルリー宮殿からルーヴル越しに見えてしまうと両宮殿の軸が揃っていないことが目立ってしまうとして、高さを当初の設計より低く抑えさせた。 また17世紀から進められていたルーヴル、テュイルリーの連結が1856年にようやく完成した。
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