バルセロナ整備拡張計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:42 UTC 版)
「イルデフォンソ・セルダ」の記事における「バルセロナ整備拡張計画」の解説
この間にバルセロナ市域を取り囲む囲壁に関して撤去の決定が下される。撤去後の都市の整備拡張計画を政府公共事業者は、セルダに都市整備拡張計画の基礎調査用地勢図の作成を委託され、1855年に完成。これを機に自らの都市計画論とそれに基づいたバルセロナ整備拡張計画の作成にも取り組む。エンサンチェの計画策定は、1854年にその準備のための研究に着手するための任にバルセロナ市当局から命じられたのがその端緒であった。 1857年にはオスマンの改造計画中のパリ(オペラ通りやエトワール広場など並木道とモニュメントを配した広場からなるバロック的な都市計画)を訪問。翌年まで滞在し、その知見もとに自身の計画に反映する。パリは1858年3月まで滞在し、この間、パリの都市計画、オスマンの計画について研究し、何人かの専門家とも交渉を持ち、オスマンのパリ改造計画の実態調査は、その問題点の把握とともにセルダの理論にも影響を与えた。 この一連の動きに対して、バルセロナ市当局は1858年に整備拡張計画の公開設計競技を主催し、当局の技術者で建築家のアントニ・ロヴィラ・イ・トリアス(1816-89)の入選案(バルセロナと数10キロ離れた集落とを結ぶ軸線を引き、その沿道の一等地に立派な建物が建ち並ぶ大通りが何本のできるというバロック的な都市案)をもってバルセロナの整備拡張にそなえようとするが、中央政府は最終的にセルダが委託報告とともに提示した計画案「エンサンチェプロジェクト並びにバルセロナ開発」(形も大きさも同じ方形街区を果てしなくどこまでも並べたもの)に従って整備拡張を行うとの決定を下し、1860年、王勅令で認可される。決定には当時のバルセロナ県知事F・フランケットと姻戚でもありまたマドリッド時代に築いた人脈等などが作用したとの指摘がある。 その後1865年まで、バルセロナ県政府の区画整理および道路建設の技術顧問を務める傍ら、民間でのエンサンチェプロジェクト振興団体の役員に就任、また1863年から3年間は再び市議会議員となっている。さらに、計画案の実現にむけて新設広場の命名(プラーザ・デ・ウニベルシダー)、街路交点道標設置、中央政府との交渉折半に赴くなど、様々な活動を展開する。計画の焦点はセルダ自身による用地買収の試みと計画を担保する法律制定の件であったが、土地所有者らの抵抗によって実現の過程で変質を余儀なくされる。市街壁撤去の際土地は競売にかけられて多くの地主を発生させ、1864年制定のエンサンチェ法の収容土地の補償規定により土地取得が難航、改良修正案を作成する。最終的にセルダの計画は、バルセロナの新市街の街路形態にその痕跡をとどめただけとなる。現在四方から囲まれているグリッド状拡張街区エンサンチェスがセルダの計画で実現したものと思われているが、セルダが実際に立案した案はもう少し有機的で単調なグリッドではなく、オープンスペースなども多数取り入れたものであった。このエンサンチェスは富裕層や産業・不動産資本による建築への投資で次第に立派な街区景観が飾られていくことにはなる。 1865年、セルダはそのエンサンチェスに自ら転居し、1867年、都市計画の理論書「Urbanizasion」を刊行し、ウルバニズムの概念を発表する。
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