オスマニア大学時代
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「ニザミア天文台」の記事における「オスマニア大学時代」の解説
ハイダラーバード藩王ウスマーン・アリー・ハーンによって、1918年にオスマニア大学(英語版)が開学すると、1919年にニザミア天文台は大学の所管へと移行した。ポーコックの死後は、その助手を務めていたバスカラン (T.P. Bhaskaran) が業務を代行し、1922年には非欧州出身者として初めて台長に就任した。 ニザミア天文台では、恒星の位置観測から時刻の補正をしたり、日の出・日の入り時刻の提供などを行っていたが、この頃から藩王国全体の正確な時刻や暦の保守を請け負うようになっていった。 資金不足で中断していた、15インチ屈折望遠鏡の設置作業は、1921年に再開した。架台が完成し、1922年にはコダイカナル天文台に貸与していたレンズも戻って、1924年から定常的に観測を行うようになり、変光星の測光観測や月による掩蔽の観測で実績をあげた。 ザファール・ジャングが残した機材には、気象観測機器も多く含まれ、更に追加の観測機器も導入されて、ニザミア天文台気温、湿度、風速、降水量などを測定する気象観測拠点となった。1923年には、ミルン水平振子地震計が導入され、地震観測も始まった。降水量については、藩王国全体のデータを収集し、統計を作成して藩王府に提供することも行っていた。ニザミア天文台における気象観測は1950年代まで、地震観測は1970年まで続けられた。 1928年には、ニザミア天文台が分担する、赤緯-17°から-23°帯の写真天図星表が完成したが、ターナーの提案により、途中脱落したポツダム天文台の分担のうち、赤緯+39°から+36°帯の再観測をニザミア天文台で行うことになった。結局、写真天図星表の作業は1946年まで続けられ、ニザミア天文台が撮影した写真乾板で計測が行われた恒星の数は763,542に上る。1932年にはブリンクコンパレータを導入し、以前に撮った写真の再計測も行われ、固有運動が大きい恒星を多数発見することになった。 1939年には、ヘールのスペクトロヘリオスコープ(英語版)が導入された。これを用いた太陽観測は1945年から本格的に始められ、国際地球観測年(1957-1958年)における国際的な太陽観測計画にも参加した。 バスカランは1944年まで台長を務め、その跡はアクバル・アリー (Akbar Ali) が継いだ。アリーは亡くなる1960年まで台長を務めた。
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