バロック都市計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 15:37 UTC 版)
バロック期には、パースペクティブやヴィスタ(眺望)を強調し、広場や記念的な建造物の間を広い直線道路で結ぶ壮大な都市計画が構想された。ロンドン大火の後にクリストファー・レンが構想した都市計画案はその一つである。ローマでは、聖なる都への入口として整備されたポポロ広場(17世紀)、各所の噴水(トレヴィの泉など)、スペイン階段(18世紀)などが都市を飾り、バロック的な効果をあげている。ドイツでは、放射状道路網を有すカールスルーエと、格子状道路網を有すマンハイムが、共に宮殿を中心としたまちづくりで有名である。バロック都市は中世・ルネサンスの閉じた都市とは対照的である。 オスマンのパリ改造 第二帝政期のフランスで、セーヌ県知事オスマンが、密集したパリ市街の改造を行った(1853-1870年)。幅の広い道路を造り、道路沿いの建物を統一的なデザインに誘導し、ルーヴル宮殿新館、オペラ座など記念的な建造物を建設した。 オスマンのパリ改造はバロック都市計画の流れを汲むもので、各国にも大きな影響を与えた(ベルリン改造計画(1862年)、日本の官庁集中計画など)。実際の改造過程ではロスチャイルドなどが水道や住宅意匠を手がけていた。 ウィーンの都市改造 19世紀半ばのウィーンでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の構想による大規模な都市改造が行われた。市を囲む城壁を撤去した跡が環状道路(リングシュトラーセ)となり、沿道には帝国議会、市庁舎、劇場、美術館、博物館などの壮麗な建物が並んだ。1873年には万国博覧会が開催された。 植民地の都市 カサブランカ(モロッコ)の新市街地はヨーロッパが植民地に築いたバロック都市の一つである。
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