バロック都市フルダ
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三十年戦争では、この街は1640年6月20日にスウェーデン軍の軍勢によって甚大な被害を受けた。 領主で修道院長のプラキドゥス・フォン・ドロステは、その修道院としての在任中にフルダ修道院領の財政を根本的に立て直した。その後継者アーダルベルト・フォン・シュライフラスは1700年にヨハン・ディーンツェンホーファー(ドイツ語版、英語版)をフルダの修道院建築責任者に任命し、ロマネスク様式のラトガー=バシリカの場所に現在のフルダ聖堂とシュタットシュロス(都市城館)をバロック様式で建設することを命じた。 1752年、この領主・修道院長は、司教領主に昇格した。七年戦争でフルダは、1762年にルックナー麾下のハノーファー軍によって占領された。 フランクフルトとフルダとの間の街道は、1764年に司教領主ハインリヒ・フォン・ビプラの指示により、ヘッセンで最初の幹線街道として拡充された。 領主・修道院長アドルフ・フォン・ダルベルクの治世にフルダは大学都市となった。1734年から1805年までカトリックのフルダ大学が存在した。この大学は4つの学部を有していた: 神学部、哲学部、医学部、法学部である。フルダの領主・修道院長宮廷建築家のアンドレアス・ガラシーニによるバロック建築は、1731年から1734年に建設された。現在この建物には、アドルフ=フォン=ダルベルク基礎課程学校が入居している。
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