ルーヴル、テュイルリーの連結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 07:17 UTC 版)
「パリの歴史軸」の記事における「ルーヴル、テュイルリーの連結」の解説
テュイルリー宮殿が建てられてからまもなく、テュイルリーと東のルーヴル宮殿を建物でつなぎ、一体の宮殿としようとする構想が持ち上がった。アンリ4世は1608年、両宮殿の南側をセーヌ川沿いにつなぐ廊下「水辺のガルリー」を完成させた。 後の王や皇帝は両宮殿の北側も建物でつなぎ、間を中庭として大きな宮殿にしようと試みた。これらの計画では、両宮殿の角度のずれを目立たなくするため、南北に横断棟を設けるなどさまざまな工夫が施されていた。しかし、両宮殿の連結が実現するのは第二帝政時代まで待たなければならなかった。建設が進まなかったのは、両宮殿の間はすでに多くの建物があり、当時は土地の強制収容に関する法律もなかったので、これらを買収するには多くの時間と費用がかかったためである。またルイ14世以降の王はヴェルサイユ宮殿に住んだためパリの宮殿に対する関心が低く、フランス革命以後の政権はいずれも短命で長期的な計画を遂行することができなかった。
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