ルーヴェン・カトリック大学に進学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「ルーヴェン・カトリック大学に進学」の解説
1928年、16歳のオットーは家族から離れてルクセンブルクで暮らしていた。ベネディクト会のギムナジウムに通学し、大学入学に向けての準備を行っていた。パリかロンドンの大学への留学も考えられたが、大都市での生活は当時のハプスブルク家には経済的負担が重かったため、ルーヴェン・カトリック大学に決定された。一家はルクセンブルクにほど近いベルギー王国への転居を願い出て、ベルギー政府からの許可を得た。 1929年からはベルギーに住む母方の叔父フェリックス・ド・ブルボン=パルムの庇護を受けつつ、ブリュッセル近隣にあるベルギー王室から貸し与えられたシュテーノッケルゼール(オランダ語版)のハム城で暮らすようになった。オットーはここでは「ハプスブルク」ではなく、ロートリンゲン家から受け継いできた先祖伝来の「バール公爵」を名乗った。この称号はベルギーの人々から好意的に受け止められた。 1930年11月20日、オットーは成人年齢である18歳に達し、フランツ・ヨーゼフ1世の成人式に準拠して儀式が執り行われた。この成人式は報道関係者の注目を集め、王政復古についての話題が巷に溢れた。 大学での学業に専念するために、オットーはこの後も当分は母ツィタを自分の代理人とすることを表明した。この後オットーはパリを頻繁に訪れるようになり、母方の伯父シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマによって社交界に顔つなぎをしてもらった。 オットーが成人を迎えるこの時期、旧ハプスブルク帝国傘下の諸国では、かつての帝国の長所や利点を公然と力説する政治家が現れるようになった。旧協商国においても、ルーマニア王国のユリウ・マニウ(英語版)首相が、1930年に堂々と「以前のオーストリア=ハンガリー帝国は、均一な官僚制のもとで明確に分離された有機体だったが、ヨーロッパにとっても、多くの利点や長所のある有益な共同体でもあった」と発言している。またハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にしている。
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