ルーヴシエンヌ、普仏戦争(1869年-1872年)
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「カミーユ・ピサロ」の記事における「ルーヴシエンヌ、普仏戦争(1869年-1872年)」の解説
100km イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ノルマンディー地域圏 パリ ルーヴシエンヌ ポントワーズ オーヴェル=シュル=オワーズ セーヌ川 オワーズ川 1869年春から1872年まで、ピサロはパリ郊外のルーヴシエンヌに住んだ。当時、ルーヴシエンヌは落ち着いた保養地であり、文学者や画家、中産階級が散策したり、別荘を持ったりする土地であった。同じ頃、モネ、シスレー、ルノワールもルーヴシエンヌや近くのブージヴァルに住んでおり、ピサロは彼らと一緒に戸外で制作した。この頃からコロー風の画風から変化し、色調が明るくなり、絵具の塗り方は薄くなった。 1869年のサロンでは、『エルミタージュ』が入選したが壁の高いところに展示され注目はされなかった。1870年のサロンでは、『秋』と『風景』の2点が入選した。これがピサロにとって最後のサロンとなった。 1870年、普仏戦争が始まり、ピサロ一家は12月ロンドンに逃れた。モネも同じくロンドンに避難していた。ロンドンでは、ドービニーから画商ポール・デュラン=リュエルを紹介され、以後、デュラン=リュエルはピサロやモネ、その他の印象派の画家たちにとって重要な取引相手となる。ピサロは、モネとともにイギリスの風景画家ターナーやコンスタブルの絵を研究した。1871年6月14日、ピサロはジュリーと正式に結婚した。同月末、一家はルーヴシエンヌに戻ったが、自宅はプロイセン軍に荒らされており自宅に残していた作品も破壊されていた。11月22日、第4子(二男)ジョルジュ=アンリが生まれた(第3子は夭逝)。 『ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道』1869年。油彩、キャンバス、38.4 × 46.3 cm。ウォルターズ美術館(ボルチモア)。 『クリスタル・パレス』1871年。油彩、キャンバス、47.2 × 73.5 cm。シカゴ美術館。 『ヴォワザン村の入口』1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館。
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