オスマン・ガージャール戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)
「マフムト2世」の記事における「オスマン・ガージャール戦争」の解説
オスマン帝国とガージャール朝は長らく友好を保っていたが、ガージャール側が自身に敵対的な部族を保護、または裏で操ってるとして、1821年に東アナトリアとバグダードへ侵攻してきた。バグダードは死守したもののエルズルムでガージャール朝と衝突、敗北し、1823年には第一次エルズルム条約を締結し講和した。内容は80年以上前に締結されたケルデン条約の国境線にすること、ペルシャ人の聖地巡礼の許可ら3年ごとに両国が使節を派遣することなどであった。しかし1830年代から国境紛争が再び起き、一触即発の状態にまでなった。しかし、戦争はイギリスとロシアの仲介で回避されマフムト2世死後の1847年に第二次エルズルム条約を調印した。内容は国境紛争地域を両国で折半し、そのための国境委員会を、設置することなどであった。国境を決める作業は長い時間をかけて行われ、1914年に完了した。
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