オスマン主義の蹉跌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/30 15:08 UTC 版)
憲法を停止したアブデュルハミト2世は上からの改革には熱心であり、彼は汎イスラーム主義に基いて政策を展開した。一方、憲政の停止によって政治の舞台から排除された新オスマン人たちは、エリートが主体であったこともあり、アブデュルハミト2世の専制主義に対して広範な人々と地域を巻き込んだ対抗運動を起こし得なかった。しかし、アブデュルハミト2世の上からの改革は逆説的ながら新たな知識人層を育て、皇帝の専制に対抗する運動をも引き起こすことになる。これは憲政復活を目指す「青年トルコ人運動」として結集してゆく。青年トルコ人革命までの憲政運動は基本的にオスマン主義の文脈上にあった。しかし、青年トルコ人運動の中心となった統一進歩委員会にはトルコ民族主義的な傾向を持つオメル・セイフェッティンや、ズィヤー・ギョカルプも参加しており、ロシア帝国出身者でテュルク系民族主義を掲げていたユースフ・アクチュラをはじめとする人々も後に青年トルコ人に合流することになる。 1908年、統一進歩委員会はアブデュルハミト2世に反旗を翻し、憲政の復活を要求した。アブデュルハミト2世は1度は鎮圧を試みるが失敗し、要求を受け入れることになる。いわゆる「青年トルコ人革命」である。統一進歩委員会は、集権主義を取り、「非集権」(分権主義)を旨としたサバハッティンらとの主導権争いに勝つ。これは、立憲制の復活により自民族への分権への期待を抱いていた非トルコ系のムスリムや、非ムスリム民族の失望も引き起こした。 この後権力を握ったエンヴェル・パシャ、タラート・パシャ、ジェマル・パシャの3人も基本的にはオスマン主義者であったが、第一次世界大戦では、アラブ民族主義によるアラブ反乱によってアラブ地域はオスマン帝国から分離し、敗戦によってオスマン帝国そのものも解体されると、オスマン主義はその歴史的役目を終えた。
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