オスマン帝国との対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
エジプト遠征の開始前に遡る1399年にスィヴァスがオスマン帝国の皇子スレイマンに占領され、ティムールに従属していた黒羊朝がオスマンの攻撃を受けていた。この時にティムールはオスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世に捕虜の返還を要求したが、バヤズィトは侮蔑の意をもって返答した。 ティムールがダマスカスに滞在している間、アフマドと黒羊朝のカラ・ユースフ(英語版)がバヤズィト1世に働きかけ、ティムール朝の影響下に置かれていたアナトリアの都市エルズィンジャンがオスマンの支配下に入る。また、オスマン帝国によって滅ぼされたベイリクの君主たちの多くがティムールに助けを求めていた。 1402年にティムールはグルジア南部に進み(ティムールのグルジア侵攻(英語版))、バヤズィトに降伏を迫った。ティムールはオスマン帝国との戦いに先立ってイスラム教徒の支持を取り付けるためにバヤズィトを誹謗する流言を流し、その上でエルズルムを攻略した。バヤズィトの元から降伏を拒む書簡が届けられるとティムールは使者を追い返し、アンカラに向かった。1402年7月20日のアンカラの戦いでティムールは勝利、ティムール軍はバヤズィトと彼の皇子ムーサーを捕虜とした。捕虜となったバヤズィトがティムールの元に連行された時、ティムールは王子シャー・ルフとチェスを指していたと伝えられている。この時にアンカラに滞在していたカスティーリャ王国の使者はティムールの勝利を祝福し、ティムールは帰国する使者に書簡と進物を携えた返礼の使者を随伴させた。また、ヨーロッパのキリスト教国のほかに、マムルーク朝からも勝利を祝福する使者が送られた。 ティムールが捕虜としたバヤズィトを檻の中に閉じ込めて侮辱した伝説は有名であるが、これはアラブシャーの記録から生じた誤解であり、実際にはティムールは捕虜としたバヤズィトを丁重に扱った。1403年3月8日(もしくは9日)、バヤズィトは拘留中に没する。バヤズィトが没した時、ティムールは彼の死を悲しんで涙を流したという。 ティムールにアナトリアを直接統治する意思は無く、滅亡したベイリクの多くに旧領を返還して復興させた。オスマン帝国の主要都市ブルサには孫のムハンマド・スルタンを派遣し、ブルサに残されていた多くの財宝と聖遺物を獲得した。12月2日に聖ヨハネ騎士団が領有していたスミルナ(現在のイズミル)を占領、これをもって七年戦役は終結した。この聖ヨハネ騎士団領への攻撃にもかかわらず、カスティーリャ王エンリケ3世、イングランド王ヘンリー4世、フランス王シャルル6世、東ローマ帝国皇帝マヌエル2世らはティムールに親書を送った。 1403年3月、ティムールが後継者と考えていたムハンマド・スルタンが夭折する。孫の死を知ったティムールは嘆きの声を上げた。祈祷を終えた後に遠征が再開されたが、有能な後継者の死はティムールの精神状態に大きな影響を与えたと言われている。同年にコーカサスのカラ・バーグで一族に帝国の領土を分配した。 1404年8月にサマルカンドに帰国。留守中にサマルカンドで不正を行っていた役人と商人を処罰し、政務の合間を縫って建築事業を執り行った。同年夏、カスティーリャ王エンリケ3世からの返礼の使節としてルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホらがサマルカンドの宮廷を訪れた。クラヴィホが面会した当時のティムールは視力が落ちており、目の上に瞼が垂れ下がりほとんど目を開けられなかったという。また、この時に明朝(あるいは北元)の使節がクラヴィホ一行に同席していたが、ティムールと廷臣は明の使節を侮辱し、彼らへの貢納を拒否した。
※この「オスマン帝国との対決」の解説は、「ティムール」の解説の一部です。
「オスマン帝国との対決」を含む「ティムール」の記事については、「ティムール」の概要を参照ください。
- オスマン帝国との対決のページへのリンク