七年戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
1399年にバルクークが没すると、それを知ったティムールは再び西方に軍を進める。また、インド遠征の前にアゼルバイジャンに派遣していた王子ミーラーン・シャーから老齢を理由として退位を勧める書簡がティムールの元に送られていた。インド遠征中(あるいは終了直後)にミーラーン・シャーは自身が後継者に指名されていないことを不服として、任地のアゼルバイジャンで反乱を起こす。インドから帰還して間も無く、「七年戦役」と呼ばれる戦役が始まった。 ミーラーン・シャーの反乱に対しては、ティムール自らが鎮圧の指揮を執った。さらに、敵対する動きを見せたグルジアに対して報復の攻撃が行われた。インドから帰還してすぐのエジプトへの進攻に、配下の将軍たちは疲労を訴え出て休養を懇願したが、ティムールは敵が団結する前に機先を制するべきだと遠征に打って出た。ティムール軍はアンティオキアを経由してシリアに進み、ティムール軍を目撃したマムルーク軍の斥候は「悪魔」が襲来したと報告した。オスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世はティムールとの戦闘に積極的な姿勢を示していたが、当時マムルーク朝とオスマン帝国はマラティヤの領有を巡って対立していたため、マムルーク朝はオスマンの力を借りずに単独でのティムール軍を迎撃した。 進軍の速度を速めるためにティムール軍の進路にある都市には降伏を促す使者が送られ、ホムスなどの都市が無血開城をした。同年11月1日、ティムール軍は抵抗の意思を示したアレッポを開戦からわずか4日で攻略した。アレッポ攻略後にダマスカスに進軍を続け、マムルーク軍の士気を低下させるために流言を撒いた。マムルーク朝のスルターン・ファラジュは降伏を拒絶し、ティムールの元に刺客を放つが、暗殺は未遂に終わった。12月から翌1401年1月にかけて野戦が行われるが、ティムール軍とマムルーク軍は双方とも損害を受け、ティムールはファラジュに和平を提案した。 ファラジュの軍がエジプトで起きた反乱を鎮圧するためにダマスカスから脱出すると、ティムールは一計を案じて市民に和平を提案し、ダマスカスの守将の反対が押し切られて使節団が派遣された。この時派遣された使節団には歴史家イブン・ハルドゥーンが加わっており、ティムールはハルドゥーンを30日以上陣営に留め置いた。ティムールの要求によってダマスカスの城門が明けられると兵士が城内に流れ込んで略奪を行い、ティムールは太守の邸宅と内城を占領する。3月17日にダマスカスで大規模な破壊が行われた後、3月19日に熱病から回復したティムールはダマスカスから退去した。破壊されたダマスカスは飢饉と疫病に襲われ、ティムールの名前は市民に忌み嫌われた。 ダマスカス退却後、ティムール朝とマムルーク朝との間に休戦協定が締結される。ダマスカスを発ったティムールは、アフマドによって奪還されたバグダードに進軍した。この時アフマドはバグダードにおらず、バグダードの守将が降伏を拒否したために包囲が布かれた。同年6月にバグダードを再占領すると大規模な虐殺が行われ、死者の首を積んだ120の塔ができたという。
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