七年戦争の敗北と植民地の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:58 UTC 版)
「ルイ15世 (フランス王)」の記事における「七年戦争の敗北と植民地の喪失」の解説
戦争のために財政はひどく悪化しており、このため財務総監マチュー・ダルヌヴィルは聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入に取り組んだ。だが、新税の導入には免税特権を侵される聖職者、貴族が猛反発し、パリ高等法院は王令の登記を拒んで抵抗する。結局、新税は導入されたものの、譲歩を重ねたもので骨抜き同然のものになってしまった。ジャンセリストの問題でも国王とパリ高等法院が対立して紛糾し、国王の権威が低落する。 1756年、フランスは七年戦争にオーストリア側で参戦した。伝統的にフランスはハプスブルク家と対決しており、この同盟は「外交革命」と呼ばれた。これにはプロイセン王フリードリヒ2世を嫌うポンパドゥール夫人がオーストリアとの仲介役となったが、その役割は巷間に知られるほど大きくはなかったようである。 1757年1月5日、ルイ15世が馬車に乗ろうとした際に男に襲われ、右脇腹を短刀で刺される国王暗殺未遂事件が起こる。男はすぐに取り押さえられ、国王の傷も命に別条はなかったが、不安になった国王はしばらくひどく落ち込んでいる。犯人はパリ高等法院の司法官の家に仕えるロベール=フランソワ・ダミアンで、主人から国王の悪評を聞き犯行に及んだと自白した。3月にダミアンは公開執行による八つ裂きの刑に処された。この事件の余波で、陸軍卿ダルジャンソン伯と海軍卿兼国璽尚書マチュー・ダルヌヴィルが罷免されている。ダルヌヴィルは「二十分の一税」を導入した有能な政治家だったが、ポンパドゥール夫人の不興を買って失脚したとされている。 七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いるプロイセン軍に苦戦し、1757年11月のロスバッハの戦いで大敗を喫してしまう。アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、ケベックとモントリオールが陥落した(フレンチ・インディアン戦争)。 1763年2月、パリ条約が結ばれ、フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド諸島の一部を含む広大な植民地を失った。この条約は「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれた。翌1764年4月15日にこの戦争に少なからず関わったポンパドゥール夫人が死去した。ルイ15世はポンパドゥール夫人の葬列を涙を流して見送っている。
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