七年戦争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:30 UTC 版)
「マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ」の記事における「七年戦争と死」の解説
1756年にフリードリヒ2世がザクセンに侵攻して、七年戦争の火蓋が切り落とされたとき、ブロウネはまだボヘミアにいた。ブロウネ軍はすぐにピルナの救援に馳せよせ、ロボジッツの戦いで苦戦して敗れたが、規律を保ちつつ退却した。ブロウネはすぐに選りすぐりの精兵とともに山道を通ってピルナへ向かおうとした。雪中で野営しつつ進んだブロウネは、歴史家トーマス・カーライルによると、眠っているときに兵士たちが彼のために即席の住まいを作ったという。そして、フリードリヒ2世の進軍を遅らせつつエルベ川岸のシャンダウ(英語版)に着いたが、ザクセン軍が包囲の突破に失敗したため、ブロウネは引退した。 1757年戦役において、ブロウネは志願兵としてカール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンの下で働き、指揮官に任命された。そして、同年5月6日のプラハの戦いで銃剣突撃を率いたとき、クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーンと同じく死を迎えた。致命傷を負ったブロウネはプラハ城内に運ばれ、6月26日に亡くなった。
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