七年戦争以降の軍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:45 UTC 版)
「フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー」の記事における「七年戦争以降の軍歴」の解説
フベルトゥスブルク条約の後、ラシーはようやく才能を発揮することができた。マリア・テレジアが息子の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世にオーストリアの軍務を委ねると、ラシーは1766年に元帥に叙され、軍の改革を命じられた。彼が新しい軍法典と補給体制を作った結果、オーストリア軍はより低い支出でより多くの規模と整った装備を維持することができた。結果としてはマリア・テレジアもヨーゼフ2世もラシーを重用した。ラシーはヨーゼフ2世の改革を支持、第一次ポーランド分割を主導したが、健康を害して1773年に辞任して南仏に向かった。その後は戻ってきたが再任することはできず、非公式の顧問に留まった。 バイエルン継承戦争ではラシーとラウドンがオーストリア軍総指揮官を務め、墺土戦争にも参戦したが、すでに老年のラシーはほとんど活躍できなかった。以降レオポルト2世の治世(1790年 - 1792年)まで政界と軍務に関与した後、ウィーン近くのノイヴァルデック(ドイツ語版)城に引退、死後は城内の霊廟に埋葬された。
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