七庶獄事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 09:14 UTC 版)
李朝14代宣祖は中宗の庶孫であり、自らの後継者には嫡流をと望んでいた。しかし正妃朴氏は病弱で子がなく、壬辰倭乱の混乱の中で庶子である光海君を世子にせざるを得なかった。 光海君には同母兄の臨海君(粗暴の性があり後継者にふさわしくなかったとされる)がいた上に朴氏の死後宣祖の正妃になった仁穆王后金氏に嫡男永昌大君が生まれていた。光海君は第15代国王に即位するもその政治基盤は脆弱といわねばならなかった。光海君を支持したのは李爾瞻、鄭仁弘ら大北派で、彼らは光海君の王即位に不満を隠さなかった臨海君を早々に排除した。 1613年たびたび庶子の差別撤廃を求めて上疏していた庶孽党が強盗事件で逮捕されると大北派はそれに目をつけた。李爾瞻とその腹心である金闓、金昌俊らは捕盗大将の韓希吉、鄭沆などを抱き込んで、朴応犀から謀叛の計画があったという自白を引き出した。その計画とは、軍資金を貯えて不平武官を糾合し、明(中国)の使臣を襲撃する。社会を混乱させ、その間に永昌大君を王位に推戴するというものであった。 さらに徐羊甲から仁穆大妃の実父金悌男が庶孽党の黒幕であり、成功の暁には永昌大君の生母仁穆大妃が垂簾聴政を取ることになっているという自白を引き出した。このため宣祖から永昌大君の保護を依頼されていた申欽ら七臣、李廷亀ら西人派数十人が投獄された。金悌男は自決を命じられ、その息子3名も巻き添えにされた。永昌大君は庶人に落とされ江華島に配流のうえ蒸殺に処された。わずか9歳(数え年)であった。 この事件で朝廷の西人派、南人派勢力が一掃され、大北派が政権を独占した。しかし幼い永昌大君を謀殺したことで後の仁祖反正の口実を与えることになる。癸丑(みずのとうし きちゅう)の年だったので「癸丑獄事(きちゅうごくじ ケチュクオクサ)」ともいう。 庶孽党は権力闘争に利用されたのは明らかで、実際にそのような謀議があったかどうかは分からない。どちらかというと当時の先進国である明の、水滸伝や三国志に影響を受けてごっこ遊びに興じているという印象を拭えない。彼らを支持した許筠も易姓革命に失敗し、1618年には牛裂きの刑にされてこの世を去る。庶子に対する差別は、一時英祖・正祖の時に改善されようという動きがあり、正祖の奎章閣や水源(スウォン)への「遷都」などの改革で書士たちの待遇も改善される予定だったが、王の突然の死により改革が中断されて、李朝が崩壊するまでなくなることはなかった。
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