七年戦争/フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「七年戦争/フレンチ・インディアン戦争」の解説
マリア・テレジアはシュレージエンの奪回を企図して外交革命をおこない、1756年に200年来ハプスブルク家の宿敵であったフランスと防御同盟を結んでフリードリヒ2世のプロイセンに対抗し、イギリスはブルボン家とハプスブルク家の連合に対抗するためプロイセンと同盟をむすんだ。同年、七年戦争が起こり、イギリスはメノルカ島をフランスに奪われ、北米でもオンタリオ湖沿岸のオスウィーゴ砦の戦いで英軍要塞が奪われるなど、緒戦は振るわなかった。 当時のイギリスの政権を担当したのは内政には詳しいものの外交に疎い初代ニューカッスル公であった。1756年、ニューカッスル公が議会の攻撃を受けて辞任し、デヴォンシャー公が代わって大蔵総裁になると、いわゆる「インド成金」の後裔で、後世「帝国の地図をいつも頭にもっていた唯一の政治家」とも評されるウィリアム・ピット(大ピット)が台頭し、国務大臣として実質的な首相の役割をになった。大ピットはイギリスをヨーロッパの一国として考えるのではなく世界政策的にとらえ、ウォルポールの平和外交を批判して台頭した人物である。大ピットの意見は、すべてにおいてハノーヴァーを軸に考える国王ジョージ2世とあわず、そのことが原因でいったん職を退いたものの、ピット以外に適任がおらず、ニューカッスル公との連立内閣を成立させてみずからは戦争指導をおこなった。大ピットは欧州戦線ではフリードリヒ2世に資金を提供して少数の兵を派遣するにとどめ、北米・インドのフランス勢力を掃討することに主眼をおいたが、その成果はおおいにあがった。北米戦線(フレンチ・インディアン戦争)は欧州の七年戦争に先んじて戦闘がはじまっていたが、1758年ルイスバーグ、デュケーヌ(デュケイン)要塞、1759年ケベック、1760年モントリオールを次々に陥落させ、大ピットの支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。 1763年のパリ条約では、欧州ではシュレージエンのプロイセン領有を再確認するにとどまった。北米大陸では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のほとんどを失うこととなり、イギリスの大西洋での覇権が確立した。 インドでも、フランスのインド提督デュプレクスの召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。アフリカ大陸西部のセネガルもフランスからイギリスに割譲された。 このように、七年戦争は南北アメリカ大陸とインド亜大陸におけるイギリスの優位を決定的なものとし、パリ条約はイギリス帝国を完成させたといわれる。イギリスはこの戦争でカリブ海のマルティニークとグアドループをフランスより一時的に獲得しているが、両島は安価な砂糖を供給するところから、同じ砂糖生産地のジャマイカなどのプランターがその領有によって砂糖価格が下がることを心配し、国会議員を動かして両島を放棄することとなった。それと引き替えに得たのがカナダであったが、当時カナダは広大ではあるものの、雪に覆われた、経済的にはうま味の少ない荒地と考えられていたのである。
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